感情を抑圧すると必ず抑圧した感情のマグマが吹き出すときがやって来ます。
マグマが外側に向かえば怒りの爆発となって現れます。
この記事では癇癪持ちが依存症であることを明らかにし、回復の方法を解説しています。
1.癇癪の正体は依存症
癇癪(かんしゃく)持ちという言葉がありますが、これは美しい言葉であり、人々に誤解を与える危険があります。
人から「あなたは癇癪持ちだね」と言われれば、「そうか、私は癇癪持ちなんだ」と何でもないことのようにに受け止めてしまいそうです。
しかし実体はそうではありません。
実体はアル中や薬中(やくちゅう)と同様に、脳内に変化が起こります。
アルコール依存症の場合は大酒を飲み続け、分水嶺(ぶんすいれい)を越えると脳内に報酬系というシステムから快楽が欲しくなったら酒を飲めば良いという欲求と信号が送られるようになります。
同様に癇癪持ちの場合も快楽が欲しくなったら怒ればよいという欲求と信号が送られるようになります。
ありのパパの場合も機能不全家族の中で過ごし、人生の中で感情を抑圧して生きてきたのですが、ある時にとうとうその抑圧が怒りの爆発という形であらわれる切っ掛け(やくざと情婦事件③)がありました。
表面は正義漢を装(よそお)っていましたので、警察からも人々からも感謝されたのですが、しかしありのパパの内面では尋常ならざる変化が起きていたように思います。
人生を生き延びるために感情を抑圧することによって何も感じないという戦術で子供時代を生き延びたありのパパですが、大人になっても子供時代の戦術を引きずったままでした。
これは無意識に行れていたことであるため、自分では気づいていませんでした。
しかし始めに申し上げたように、一人の人が感情を抑圧したまま人生を生き切るということはまずありません。
「プシュ、プシュ!」と異音を響かせながら、自分の人生を混乱の中に引きずり込んでいくのです。
2.健全な怒り方と病的な怒り方
健全に怒れる人と病的な怒り方をする人の違いは何でしょうか?
それは健全に怒れる人は他の感情も自分の内側で感じることができるという点です。
喜びも悲しみも、他の様々な感情も十分に自身のうちで感じることができます。
これに対して病的な怒り方をする人は他の感情を感じることが余りありません。
これは感情表現が乏しいということではありません。
そのように受け止めてしまうと理解を誤ってしまいます。
そうではなく『自身のうちで感情を感じることができない』のです。
ありのパパもそのような者の一人です。
つい最近まで他の人もそうかと思っていました(爆)。
3.回復の道はある!
突発性怒り依存症になってしまったら、どのようにしてそこから解放されていけば良いのでしょうか?
それは12ステップをやり、感情の問題に焦点を当てているステップミーティングに参加することです。
そのような団体にEA(イモーションズ・アノニマス)があります。
彼らはAAの12ステップの一番目のステップの「アルコールに対して無力であり」のところを「感情・情緒に対して無力であり」と置き換えて、12ステップを回復の道具としています。
なぜこんなにありのパパはよく知っているのでしょう?
そうです。ありのパパ自身がEAに参加しているからです。
4.親御さんに申し上げたいこと
怒(おこ)るのと叱(しか)るのとは全く違うことです。
むしろ怒っていると叱ることが不可能になります。
なぜなら叱るときは相手のことを思って「こんなことをしていたら将来大変なことになる」ということで叱るわけです。
子供の心にできるだけ通るように、子供の生き方の方向転換が出来るように、子供がこう言ったらこう返すとか色々知恵を絞らなければなりません。
そういう訳で叱るこちら側は用意周到に作戦を練る必要があります。
そのような事はこちらが冷静でなければ、とても出来る事ではありません。
ですから親御さんに申し上げたいときは、叱るときは決して怒っていないときにしてくださいということです。
5.軽く考えると痛い目を見る危険がある
どうぞ皆さん、感情の問題を軽く考えないでください。
「皆そうだから」とか「怒って何が悪いんだ!」とか「怒るべきときは怒って良いんだ」とか色々仰りたいことはあるでしょう。
しかし節度をもって飲酒できるのは健常者だけであり、一旦(いったん)アルコール依存症になったら絶対禁酒しか道はないように、一旦怒り依存症になってしまった人には怒る自由はありません。
ただ感情的なしらふを生涯(しょうがい)貫(つらぬ)き通すしか道はないのです。
(お断り:「突発性怒り症候群」「突発性怒り依存症」という言葉はありのパパのつくった言葉です。医学的・カウンセリング的にそのような言葉は存在しません。
また3回という数字も例えであり、実際に3回怒ったら誰もが怒り依存症になる訳ではありません。)

◎回復と平安を祈っています。