聖書観が異なる者同士で団体を設立してもうまく行かない理由とは?

カリスマ運動とペンテコステ派と聖霊第三の波の教会がリバイバル同盟を設立しました。
しかし、この団体は開店休業状態です。
原因を推測すると聖書感の違いが挙げられるようです。

この問題を考えます。

1.リバイバル同盟のこと

当初はペンテコステ教会や聖霊第三の波の教会は聖書観の問題については髙(たか)を括(くく)っていたようです。
聖霊の主権とお働きを認め尊重するという一点で一致できれば問題ないと考えていたのですが、いざ一つの団体をつくって運営してみると、互いの違いばかりが目につくようになります。

ペンテコステ教会や聖霊第三の波の教会は、自分たちが当たり前のこととしている聖書信仰をカリスマ運動の教会も受け入れてくれるだろうと根拠のない期待をしていました。
なぜならカリスマ運動はリベラル派教会が聖霊に触れられて聖書信仰をもつようになったとばかり思い込んでいたからです。

2.カリスマ運動はリベラル信仰のまま

彼らはリベラル信仰のままで、カリスマ運動を行っていました。
これはペンテコステ教会や聖霊第三の波の教会にとっては許しがたいことでした。
でもよく考えてみると、許しがたいと思う方がおかしいのです。

日本のカリスマ運動の指導者は次のような声明文を出しました。

「私たちは日本基督教団でカリスマであるということで差別を受けてきた。それが同じ聖霊派の団体をつくって中に入ってみれば今度はリベラルということで差別を受けている。私たちは二度と謂(いわ)れの無い差別を受けたくはない」

これは道理に適ったものです。そのように仰ることも理解することができます。

3.行き当たりばったりの結果

イエスは「あなたがたのやることがうまくいくかどうかよく考えてから、それから着手しなさい」と言われました。
そうしないと途中で中断せざるを得なくなり、恥を見るからです。

勢いだけで物事を判断してはなりません。
そうしないとこのような結果になります。

4.神学と信仰とはどのような関係にあるのか?

神学は単純・素朴の信仰を厳密な思考によって支えるためにあります。
故に、そもそも単純・素朴の信仰がないなら、聖書観を論じる意味はありません。

イエスを信じるといっても、実際にはそれは聖書を通じてなされるのですから、聖書そのものに疑義をもっているなら、その聖書が証するイエスを信じることは出来ない相談ということになります。

故に信仰の前提であり、神学の基礎となるのが聖書観なのです。

a.聖書自身が霊感によって書かれたことを明確に証している。

「聖書はすべて神の霊感によるもので」(Ⅱテモテ3:16)

b.イエスご自身も逐語霊感説に立っている。

「まことにあなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ5:18)

c.歴史も聖書の預言がみな成就することの証人である

「全部が成就されます」(マタイ5:18)

キリスト教信仰は聖書信仰に立たない限り、そもそも成立し得ないし、また存続も不可能な信仰です。
その意味で、聖書観のちがう者同士が団体を設立したのは明らかに誤りでした。

◎平安と祝福を祈っています。

4件のコメント

  1. ありのパパさん、こんにちは。
    福音派・ペンテコステ派とリベラル派の対話シリーズが好評とのこと、了解しました。
    多くの人が、この問題に関心を持たれていることを知り嬉しく思います。
    また、寛容の精神を持って、このような対話の場を設けてくれたパパさんに感謝します。

    今回の「聖書観」の問題は、クリスチャンにとって正に根本的な問題なので、お互いに譲れないところだと思います。パパさんの基本的な主張を拝見しましたので、次に私の聖書観について述べさせていただきます。
    ただ、私の主義は「自分の主張はするけれど、それを相手に押し付けて屈服させることはしない。つまり『折伏』はしない」というものなので、ここで述べる私の主張は、あくまでも「ヒラぴゃん」の個人的な主張であって、リベラル派の主張を代弁しているつもりもないし、また、パパさんや、このブログを読んでいる人に、私の聖書観を受け入れろ、と言っているわけでもありません。その点をご了承いただいた上でお読みいただけると幸いです。

    さて、パパさんのブログを読んで、少しびっくりしたことがあります。それは、カリスマ運動のメンバーが、日本リバイバル同盟の中で浮いてきている、ということです。その結果、カリスマ運動の指導者が「我々は日本基督教団の中でカリスマ派ということで差別を受け、今度はリバイバル同盟の中でリベラルということで差別を受けている」という声明を出したということも初耳でした。あらあら……という感じです。

    私は、カリスマ運動がリベラル派とペンテコステ派の掛け橋になると思っていたのですが、事はそれほど簡単ではなかったわけですね。やはり、聖書観の違いというものには超えがたい溝があるのだなあと思い知らされました。でも、そうなると、リベラル派と福音派は永久に理解し合い、お互いを認め合うということはできないということになるのでしょうか。

    プリンストン大学神学部から離脱して、ウェストミンスター神学校を設立したメイチェンは、本の中で「リベラリズムはキリスト教ではない」と主張していますが、このように言ってしまっては、もう歩み寄りとか理解の可能性は閉ざされてしまうと思います。まあ、メイチェンは、そのようなものは期待も希望もしていないようですが……。

    というところで前置きを終えて、本論に入りたいと思います。

    まず、キリスト教信仰、特に我々プロテスタント教会がよって立つところが「聖書」にあることはリベラル派も福音派と同じです。それは、宗教改革の基本原理の中に「聖書のみ」とうたわれていることからも明らかです。しかし、その聖書をどのように理解するのか、という点で、リベラル派と福音派は違います。福音派はあくまでも聖書を、「直接的な神の言葉」と理解し、リベラル派は「神の言葉の証言」と理解します。リベラル派にとって「神の言葉」とはあくまでも「イエス・キリスト」であって、「聖書」そのものではないからです。
    そう言うと、福音派サイドからは、「お前は宗教改革の基本原理である『聖書のみ』を認めないのか」という批判の声が聞こえてきそうです。しかし、宗教改革のスローガンは「聖書のみ」だけではありません。「信仰のみ」という基本原理もあります。信仰義認の原理です。それではなぜ「のみ」とうたっておきながら、複数の原理があるのでしょうか。普通「のみ」と言えば一つだけのはずです。

    宗教改革の基本原理である「聖書のみ」は「形式原理」と呼ばれ、「信仰のみ」は「内容原理」と呼ばれていることに注意したいと思います。宗教改革者が「聖書のみ」というとき、それは、聖書の言葉(字句)をそのまま神の言葉とするのではなくて、聖書という「形式」の中から、信仰という「内容」を受取ることの大切さを言っているのではないでしょうか。

    聖書の「文字」に拘泥すると、我々は「聖書の言葉を神とする」という「偶像礼拝」(聖書に対して不敬な言葉であることは重々承知した上で、あえてこの言葉を使っています。お気を悪くされた方がいたらお赦しください)に陥ってしまう危険性すらあると思います。「神の言葉」の属性は「神」にあります。したがって、聖書を直接的な神の言葉とするときに、我々は聖書を「神」として崇め奉り、「聖書にこう書いてある」というとき、それは「神はこう言っている」という意味につながり、聖書の言葉を引用することによって、我々は神の代弁者となり、そのことで他人を支配するようになる危険性すらある、と思うのです。昨今の福音派における「信仰的パワーハラスメント」の原因の一つは、ここにあるのではないでしょうか。つまり、牧師が神の言葉である聖書の代弁者として聖書の権威によって自らを(意識的、無意識的に)信徒に対して権威づけ、それによって、牧師に逆らうことは神の言葉に逆らうこと、つまり神に逆らうことという図式ができあがってしまい、信徒は牧師を神の代理者として崇め奉り、そこに教会のカルト化が始まる、という考えは見当違いでしょうか。

    さきほど、プロテスタント教会と聖書の関係に触れましたが、宗教改革の立役者であるルターやカルヴァンは、聖書66巻を直接的な神の言葉と理解していたでしょうか? 彼らは聖書が信仰の礎であることを強調しましたが、しかし現在の福音派が考えているほど、直接的に聖書を神の言葉と理解していたのかは疑問があります。例えば、ルターがヤコブの手紙を「藁の書簡」と読んで軽視した話は有名です(晩年になって、それは取り消したという話もありますが)し、またカルヴァンも「ヨハネの黙示録」はユダヤ教の残渣にすぎないとして軽視していたという話も伝わっています。実際、ルターもカルヴァンもヨハネの黙示録の聖書講解は残していません。

    福音派は、聖書を直接的な「神の言葉」とします。もちろん福音派でも、聖書を書いたのが人間であることを否定はしませんが、しかし、「神の霊感による」ことを主張するあまり、聖書の「神言性」が強調され、「人言性」が軽視されるきらいはないでしょうか。そのため、聖書の高等批評的な研究は、神の言葉への冒涜として非難され、リベラル派の聖書学者による研究の成果についても好意的に受け止められないばかりか、そのような聖書学者や、それを認めるリベラル派のクリスチャンを「聖書をまともに信じていない」と断罪する、そのようなことはないでしょうか。リベラル派は、聖書の「神言性」と共に「人言性」も同様に重視します。聖書の「神言性」はいわば信仰のレベルで考えるべきことで、聖書学においては、もっぱら「人言性」を念頭において取り扱います。それは当然といえば当然のことで、「聖書研究」と一口に言っても、教会の祈祷会で行われるディボーショナルな「聖研」と、学問としての「聖書学」では、その内容が異なるのは当然です。その点については、福音派神学の牙城である東京基督教大学の新約学の教授である伊藤明生先生も、『大学とキリスト教教育』という本に収載されている「神学的解釈学の提唱」という文章の中で同じ事を言っています。

    そもそも、聖書が「神の言葉」であり「人間の言葉」であるのと同様に、教会も「神がご自身の血であがないとられた神の教会」であると同時に、「罪赦された罪人である人間の集まり」という両面性を持っています。ですから、もし聖書が「神の言葉」であるということで、批判的(非難的ではありません)学問の対象となることがはばかられるのでしたら、教会も「神の教会」なのですから、そこに何か問題が存在したとしても、それに対して批判的な対応をとることは不信仰なことにならないでしょうか。しかし現実問題として教会の中でも様々な問題(セクハラ、パワハラ等)があり、もしそれらに対して批判ができないのだとしたら、教会を批判することよりも、批判できないことの方が大問題です。また、聖書や教会だけでなく、何よりもまず、「主イエス」ご自身が「神であり人」であります。初代教会から古代教会の時代、主イエスが「神」か「人」かで大論争が起こりました。そして、その結果、主イエスは「まことに神であり、まことに人」という正統派のキリスト論が勝利をおさめたのです。主イエスが「人」にすぎないと言った人たちは勿論のこと、主イエスは「神」であって人ではない、と言った人たちも異端として退けられました。だとしたら、なぜ福音派の人たちは、主イエスや教会の場合のように神人両面性を同等に認めずに、聖書の神言性を強調して人言性を軽く見るのでしょうか。

    前アメリカ大統領のブッシュ氏や、元大統領のレーガン氏などは熱心な福音派クリスチャンでした。彼らはそれこそ聖書を「神の言葉」と信じていたのでしょう。聖書の言葉に従っていれば、世界は(そしてアメリカは)良くなると信じて、全米の福音派の圧倒的な支持を受けて政治を行った。その結果がどうであったかは、改めて述べる必要もないと思います。もし、聖書が直接的な神の言葉であったとしたら、どうしてそのような結果になってしまうのか理解に苦しみます。

    次に、聖書がそのまま「神の言葉」だとすると、どういうことになるかを考えてみたいと思います。
    福音派では多くの教会で「新改訳」聖書を使用しています。言うまでもないことですが、これは「翻訳」であって、原典ではありません。パパさんは「聖書の中で主イエスご自身が、律法(旧約聖書)の一点一画もすたれることはない、と言っているのだから、主イエスご自身が逐語霊感説に立っている」という主旨の発言をなさっています。しかし、主イエスがおっしゃった「一点一画も」という強調は、律法の成就者としての主イエスが、神の律法の重要性を明確にするために敢えてこのような表現をしたのだと思います。確かに、ユダヤ教の中にも逐語霊感説を強調する人がいて、旧約のヘブライ語の母音記号にまで神の霊感は及んでいると主張する人の話を聞いたことがあります。また、英米では、「欽定訳聖書」(KJV)こそが、神の霊感を受けた翻訳であると長い間、信じられてきました。しかし、これは逐語霊感説の立場からすると少々おかしいと言わざるを得ません。「一語」「一点一画」が霊感を受けたとすれば、それは原典でなければ成り立たないからです。翻訳とは、単に一つの単語を他の単語に置きかえるのではなく、元の言語の「意味」を、他の言語に移し替える作業だからです。つまり翻訳とは2つの言語間での「意味」の置き換えということになります。当然そこでは「解釈」が入ります。解釈なしに翻訳はありえません。そうなると、翻訳された聖書は原典(ヘブライ語、ギリシャ語)と「意味」は同じ(厳密に言えば、解釈が入るのだから、意味についても原典と同一であるという保証はない)だけれど、言葉そのものは違うのだから、「一語」「一点一画」という単語については対応していないということになり、つまり翻訳された聖書に逐語霊感説は適用できなくなります。そのことは福音派の方も気づいておられ、「聖書は『原典』において神の霊感を受けた~」という言い方をよく目にします。イスラム教の聖典コーランなどは、正にこの考えに従っていて、正式なコーランとは、アラビヤ語のコーランだけで、翻訳されたコーランは厳密にはコーランではないのです。コーランはアラビヤ語で読まれるときだけが神の啓示の書なのです。ですから、イスラム教でコーランをアラビヤ語で朗読するとき、そのアラビヤ語の発音までもが重要なのだという話を聞いたことがあります。

    さて、聖書は「原典」において「神の言葉」であるという福音派の主張の検証を続けましょう。聖書が「原典」において「神の言葉」であるならば、ヘブライ語の旧約聖書とコイネーギリシャ語の新約聖書を読めば、それが「神の言葉」であるかと言えば、そうでもありません。

    ご存知のように、旧約にしても新約にしても印刷技術が誕生するまでは「写本」で後世に伝えられてきました。旧約については、古代からユダヤ教の厳重な写本技術が確立されていたため、写本による誤記は非常に少ないようです。そのことは死海写本の発見により確認された事実です。しかし、新約聖書になると話が違います。新約聖書が書かれた初代教会の時代から古代教会、そして中世へと時代が進むに従って、新約聖書も非常に多くの写本が生まれ、それが更に写本されて後世に伝わってきました。ところが、旧約と違って、初代教会には専門の写本家や、写本において間違いを起こさないための技術というものはありませんでした。さらに、初代教会から古代教会の時代には、まだキリスト教の教義も確立していませんでしたから、主イエスがどのようなお方なのかというキリスト論ひとつにしても、複数の説がありました。そのような中で、写本が行われた結果、新約聖書の写本間には非常に多数(本当に多数)の食違いが発生してしまいました。その中には、単なる誤記もありますが、キリスト教の教義に関わる箇所について、写本家が自分が信じていることに都合が良いように書き換えてしまったり、そのような確信犯ではなくても、善意で、意味が不明瞭の箇所を親切に分かりやすく直したり、また、新しい資料が手に入ったので、それまでの聖書の中にその新しい物語を追加したり、と様々なことが行われました。その結果、現在残されている写本に書かれてある文章にはあちこちで異文があり、いったいどれがオリジナルの文章なのかわからなくなってしましました。そのため、聖書(特に新約聖書)のオリジナルを確定するための本文批評という作業が必要になります。写本をいくつかの系統に分けて、それこそ一語一語つき合わせ、食い違う箇所について写本全体の位置関係や文章の特徴などから、よりオリジナルに近い(と思われる)ものを選択していく修復作業です。このような努力の結果、現在では旧約にしても新約にしても、かなりオリジナルに近いと考えられるところまで作業が進みました。旧約ではビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア(BHS)、新約ではネストレ・アーラント(現在27版、そろそろ28版がでる予定)が校訂原典の最も権威あるものです。もちろん新改訳聖書もこれらを原典として翻訳されています。

    このように書くと、聖書そのものがいかにも不確かなものであり、聖書の権威をいたずらにおとしめる意図があるのではないかとかんぐられそうですが、しかし、今述べたことは事実です。例えば新改訳聖書(口語訳でも新共同訳でも同じですが)の中で、マルコ福音書の16章9節以下や、ヨハネ福音書8章の姦淫の女の物語などを見ると、文章全体が[ ]でくくられています。この箇所は、最も信頼できる写本群の中には書かれていない物語なのです。そのため、これらは後になって付け加えられた可能性がきわめて高く、そのために福音派の聖書翻訳である新改訳聖書でも、これを無視することはできずカッコ入りになっているのです。また、新改訳聖書では欄外に、写本間で食違いがあり、結論が明確でない箇所については、そのことをコメントとして載せています。

    さらに、それでは「聖書はオリジナルの段階では霊感を受けた神の言葉である」とすればどうでしょうか。これについては何とも言えません。なにしろ肝心のオリジナルは存在しないのですから。しかし、仮にオリジナルにおいては聖書は神の言葉だった、という命題が正しいとしても、私たちはオリジナルの聖書を持っていないのですから、この命題は絵に描いた餅であって意味をなしません。

    もし、聖書がオリジナルにおいて正真正銘の神の言葉(直接的な意味での神の言葉)であり、それが書きかえられたり、朽ちたりしたら困るのであれば、神さまはきっと、朽ちやすいパピルスや羊皮紙ではなく、絶対に変質しない金の板にその言葉を書き記したであろう、という言葉をある本で読んだ記憶があります。金の板は笑い話のようですが、しかし、真面目な話、モーセの十戒が石の板に刻まれて与えられたという物語の背景には、神の言葉の不変性に固執するユダヤ教の思想が込められていると思います。

    以上、聖書が直接的ない意味で神の言葉かどうか、という点について私の意見を述べさせていただきましたが、最後に私が、聖書の無謬性(インフォリビリティー)は受け入れるけれど、無誤性(イネランシー)については受け入れられない、という立場をなぜとるのか、ということを説明させてください。

    ご存知のように、聖書が無謬だというとき、それは「聖書は救いの事柄について誤りがない」ということを意味し、無誤だというときは「救いの事柄だけでなく、歴史的にも科学的にも誤りがない」ということです。

    以前、聖書無誤説に立つ兄弟が言っていたのは「もし1ケ所でも聖書に間違いがあったとしたら、他の箇所にも間違いがある可能性が出てくる。そうなると、聖書はいったいどこが本当で、どこが間違っているのか分からなくなってしまう。聖書を書いたのは確かに人間だけれど、それは神の霊感を受けて書いたのだから、神が間違ったことを書かせるはずがない。もし、間違ったことを神が書かせたのだとしたら、神はうそつきになってしまう」ということでした。

    これは一見もっともな主張に思えますが、本当にしょうでしょうか?

    もし聖書に1ケ所でもほころびがあったら、それが蟻の一穴となって聖書全体の信頼性が崩れてしまうのでしょうか。聖書とは、それほど不安定なものなのでしょうか?

    ある人がこう言っていました。「リベラル派は聖書を「解釈」することに力を注ぐ。しかし、福音派は、聖書を「実現」することに力を注ぐ」。

    つまり、福音派(というか聖書の逐語霊感説に立つ人)は、聖書に書かれてあることが、現実の世界の中でいかに実現するか(あるいは実現してきたか)に関心がある、というのです。この見解が正しいのかどうか、私には判断できませんが、聖書信仰の一面をついた指摘だな、とは思いました。ちなみにこの方は、聖書信仰に立つ異言を語るペンテコステ派の信者さん(職業は英文学の大学教授)です。

    聖書に書かれてあることは全て、現実のこの世において「実現した」「実現している」「実現する」と考えるとき、その立場は「無誤説」となるでしょう。しかし、無誤説に立つと、聖書の中に存在する矛盾点(に思えるもの)を合理的に説明しなくてはなりません。ある場合には比較的簡単に説明できるかも知れませんが、場合によってはかなり強引な「こじつけ」のような説明をせざるを得ない場合もあると思います。

    例えば、旧約聖書の中でバラムが乗ったロバが文句を言った、つまり口をきいた、という話があります。もし聖書は何の解釈も必要とせずにそのまま事実として受け止めるのであれば、この物語も歴史的事実ということになります。リベラル派は、この物語を読むときに、そこに書かれてある意味を探ろうとしますが(福音派も同じように意味を探ると思いますが)、無誤派がこの箇所を「事実」だと主張するためには、果たしてロバにそのような発声器官が備わっているのかどうかとか、ロバの脳の言語中枢がどうなっているのかとかいったことを説明しなくてはならないと思うのです。しかし、そのようなことが果たして聖書を読む上で必要なことなのかどうか、神さまは聖書を読む人間にそのような努力を要求しているのかどうか、と思うのです。

    私は、聖書とはそのように人間に守ってもらわなくてはならない(場合によってはこじつけのような手段を使ってまで)ほどヤワなものではないし、1箇所でもほころびがあったら、それを繕わなくては全体が崩壊するというような脆弱なものではないと思います。むしろ、聖書はどんどん批判的(批判と非難は違いますので誤解しないでください。学問的な意味での批判です)に読んでいいと思うし、その結果、思いがけない結果が出てきたとしても、それによって信仰がぐらつくことはないと思います。

    言いたいことを筆にまかせて書き綴りました。
    ありのパパさんにとってはショックな内容もあるかも知れません。
    「ヒラぴゃんって、敬虔なクリスチャンだと思っていたけど、全然そんなことなくて、むしろ異端じゃん。というかクリスチャンですらないじゃん」なんて言わないで、寛容な精神でお読み下さい。笑い飛ばしてくれてもかまいません。どうぞお願いします。

  2. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    リベラル派の信仰理解を理解できる言葉で聞く事ができたのは、私にとって初めての経験でした。
    今まで出会ったリベラル派の人たちは悪く言うと「破壊的リベラル」と言うべき人々だったのかもしれません。
    ヒラぴゃんさんは文字通り「良心的リベラル」ですね。感謝をいたします。
    穏やかな気持ちでコメントを読むことができ、これも感謝をいたします。
    胸がどきどきする事もありませんでしたし、血が逆流する事もありませんでした。(笑)
    詳細な反論は後ほどするとして(笑)、問題の本質は同一の理解に達する事よりも(もちろんそうできれば良いのですが)、理解の枠組みを作り出す事にあると考えます。

    この対話は三つの点で重要です。
    ①プロテスタント信者のニーズを満たしている。
    いつもはペンテコステ派しか読みに来ないであろう、このブログにも多くのリベラル派信者が対話シリーズを読みに来ていたようです。
    お互い普段は知らんぷりしたり罵り合っていても、心のどこかで分かり合う事への欲求があるのだと思います。
    ②イエスのご命令に従う事である。
    イエスは弟子たちに一致をお命じになりました。
    そうであれば、それを実行しなければならないと考えるのが真の福音派です。
    名前だけ福音派で中身は律法主義派であるなら、偽クリスチャンという事になります。
    再臨の裁きのとき、きちんと弁明できる人生を送らなければなりません。
    ③世に対する証である。
    言い争っていては、世の人々は私たちのうちに何を見るでしょうか。
    偽りと人造の宗教を見るのではないでしょうか。
    意見が違っていても、新たな枠組みに基づいて積極的に共存できる関係が構築されていて初めて、伝道が意味あるものとなるでしょう。
    この点から言えば、メイチェンは十分な視点をもっていなかったと言わなければなりません。

    では良い連休をお過ごしください。

  3. パパさん、親切なご返事ありがとうございます。
    そう言っていただけてホッとしました。

    この掲示板が、パパさんの言われるようにペンテコステ派、福音派、リベラル派の相互理解の枠組み作りのきっかけとなれば嬉しいですね。

    パパさんの反論は半分楽しみ、半分ドキドキで待っています。

    お互いに、焦らずゆっくりとやりましょう。

    私は明日(29日)会社です。
    連休は今週の土曜日から来週の水曜日までなので、今しばらく先です(泣)

    ちなみに、関係ないですが、明日4月29日は私たち夫婦が教会で結婚式を挙げてからちょうど20周年の記念日です。(年がばれてしまいますね、ハハハ)

    それではまた。

  4. ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    結婚記念日おめでとうございます。20年という年月は貴重ですね。
    どうぞ良い結婚記念日をお過ごしになられますように。

    それはそうと世の中では16連休の人も多いそうです。
    明日が休みでないことが悲しいことなのか喜ばしいことなのか、判断がつきかねます。
    まぁ、しかしパウロのごとく「豊かさのうちにいることも貧しさの中に生きることも両方の秘訣を心得ている」と言えるようになりたいものです。
    (なかなか難しいですが。)

メール登録者だけがコメントできます。【新しい投稿をメールで受け取る】にチェックを入れてください。