自分の願いを祈るのではなく、祈りを神との人格的交わりに用いる!

私たちは自分の必要を知っていると思っていますが実は知らない場合が多いのです。
そして自分の必要を知らない人は大切な人の必要を知ることができません。
この記事ではどうしたら自分の必要を知ることができるのか、その方法を解説しています。

1.自分の真の必要を知らないことが真の問題

息子さんが統一協会に洗脳されて、その脱出活動に携わる中で息子さんのお父様はこう言われました。「かつて私は家を建て、財産をこしらえるのが人間の幸せだと思っていた。しかし息子の救出活動に携わる中で、人としての幸せは、そんなものではないと気づくことができた。だから息子の救出活動に携わって本当に良かったと思っている」

息子さんはお父さんのこの言葉を聞いて「たくさんの迷惑をかけたにも関わらず、このような事を言ってくれる父には頭が上がりません」と言われました。

私たちが必要だと思いこんでいるものが実は必要でも何でもなく、ただの邪魔なゴミにすぎないということがあり得ます。

このお父さんではありませんが、わたしたちは人生の越えるべき峠を越えない限り、決してわからない事柄があるように思います。
もし私たちが「誰よりも自分の必要を知っているのは、この私である」と考えているとするなら、それはとんでもない思い違いです。

私たちは自分の本当の必要を知ることができません。
しかし天の父は私の真の必要を知っておられます。
ですからそこに信頼を置いて祈ろうではありませんか!

2.「言ってくれないとわからない」と「察してくれて当たり前」

ある映画の中で、父が娘に向かって「私はどうしたら良いんだ。教えてくれ!」と叫ぶように言います。
それに対して娘は「何でそんなことを娘である私に言わせるの!」と答えます。
そうして娘は怒って席を立ち、その場を去ろうとします。

立ち去ろうとする娘に追いすがるように父親は「お前は二十年前に私に『お父さんがあなたでなかったら、どんなに良かったか』と言ったね。私はそれ以来どうしたら良い父親になれるか探し求めてきた。でもね、私には分からないんだ。頼むから教えてくれないか」と眼に涙を一杯に貯めながら懇願します。
そうすると娘は「お父さんの今の一言で十分よ」と言い、互いに抱き合うのでした。

私たちは自分の必要について知らないのと同様に、自分に一番身近な隣人すなわち家族の真の必要についても知っていない可能性があります。

問題があるお家のご両親がよく言うセリフが「そんなこと、言わなきゃ分からないじゃないか」というものです。
このセリフを夫婦喧嘩のときには決して言ってはなりませんし、子供が両親の無理解に対して怒りをあらわにしているときも言ってはなりません。

なぜなら、その一言で相手の心を決定的に離れさせてしまう危険があるからです。
難しいのは自分は言ってくれて当たり前と思っているのに、相手は察してくれて当たり前と思っているところです。

3.自分自身の必要に気づけない人は、隣人の必要にも気づけない

人としての最大の必要はありのままに受け入れられることであると、ありのパパは考えています。

自分の子供に「ああせい、こうせい」とやたらに注文が多い親御さんは、大体において自分自身に対しても無意識のうちに「これが出来たら合格、出来ない自分は生きていたら駄目」と言い続けているものです。

また自分が出来なかったからという理由で、習い事や職業を自分の子供に暗黙のうちに強制するような場合も「自分はこれが出来なかったから不合格、でも替わりに自分の子供がこれをなし遂げたら自分も合格となる」という間違った思い込みをもっている場合もあります。
これなどはまさに替え玉受験ならぬ、替え玉人生と言わなければならないでしょう。

4.祈りの真の目的は神との人格的関係を深めていくこと

「願い事がなければ祈ることがない」というのは考えてみればおかしな話です。
もちろん信仰に入ったばかりの時は、それが当然のことでもあります。
神様は信仰に入ったばかりの方が失望することのないように特別に祈りをかなえてくださっているのではないかと、端で見ていて感じることがあります。

しかし信仰年限が進んでいくと無鉄砲な願いもしなくなりますが、たとえ願っても叶(かな)えられなくなるのが一般的です。
叶えられないのは神があなたを愛していないからではなく、かえってあなたを深く愛しておられるからです。

私たちの真の必要をご存じである神様との人格的交わりである祈りを通して、自分自身と隣人の必要に気づいていく者となりたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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