マタイの福音書4章にはイエスがサタンの誘惑を受けられたことが記されています。
一つ目は「石をパンに変えてみろ」という誘惑。
二つ目は「高いところから飛び下りてみろ」という誘惑。
三つ目は「世界中の富をやるから、俺(サタン)を拝め!」という誘惑です。
単純に読むと「こんな誘惑に引っかかるわけないだろ!」と思いますが、ところが三つの誘惑の中には私たちも引っかかりやすい罠(わな)が含まれているのです。
それでは順番に見ていきましょう。
1.「石をパンに変えてみろ」という誘惑
①石をパンに変えようとする本質は何か?
この誘惑の本質を食欲の誘惑であるという人がおります。
この誘惑には食欲もかかわっていますが、本質的なものではありません。
答えはイエスがサタンへの返答として引用された旧約聖書の申命記三章八節にあります。
「主は、あなたがたが飢えて苦しむようにし、その中でマナという不思議なパンを与えられた。それは人がパンさえあれば生きられるものではなく、神の御心でなければ神に祝福された生きがいのある人生を生きることはできないのだということを、あなたがたに分からせるためであった。」(現代訳聖書)
私たちが陥りやすい罠は、神の御心に従うことと、自分の必要を満たすことを分離して捉えてしまうことです。
それは必要を満たすことが緊急であるような場合には心ならずも神の御心に従うよりも、目の前の必要を満たすことを優先してしまう生き方です。
もう一つの生き方は、神の御心に従うということの中に、自分の必要を満たすことが含まれていると信じる生き方です。
この生き方を選択している人は、自分の必要を満たすことであっても条件反射的に反応しないように心がけます。
たとえば目の前に大変お買い得な商品があって、これを買わないと損だと物欲が脳内で大爆発するようなときでも、いったん立ち止まって「これを購入することは果して神の御心だろうか?」と考え、祈り、導きを待ちます。
そうすると不思議に購入すべきときは頷(うなず)きがやって来ますし、購入すべきでないときは見送りのサインが送られてきます。
②神に従う時、すべての必要が神によって満たされる
問題の核心は自分の必要を満たすこと自体にあるのではありません。
そうではなく「神の御心に従うことをそっちのけにして自分の必要を満たすのは罪」ということです。
大学生伝道に携わる方がかつて次のようなことを述べておられました。
「学生たちは非常に敬虔であり、すべてのことについて神の御心に従おうとするのですが、就職のことになると一転して報酬の良い職業を選択してしまう。その結果、仕事が殺人的に忙しくて教会から離れてしまう」
これなどはまさにサタンの「石をパンに変えてみろ」という誘惑そのものであると言えます。
神の御心に従うことと、自分の必要を満たすことを別々のこととして捉える生き方をしてはなりません(これを二元的生き方と言います)。
そうではなく神の御心に従うなら、神が自分の必要を満たしてくださると信じる生き方を選び取ることが大切です(これを一元的生き方と言います)。
二元的生き方は必ず信仰の破船(はせん)をもたらします。
一元的生き方は生きがいのある人生をもたらします。
○私たちはどちらの生き方を選び取るでしょうか?
2.「高いところから飛び下りてみろ」という誘惑
イエスが荒野で受けた二つ目の誘惑は「高いところから飛び下りてみろ」という誘惑でした。
①承認欲求に振り回されてはならない
誰にでも承認欲求があります。
若い頃には承認欲求に万能感がくっついて大変なことになります。
だれにでも自分の存在を認めてもらいたいという欲求があります。
このために人は困難にぶつかっていくと言っても良いほどです。
そしてうまくできれば天狗(てんぐ)になり、傲慢になります。
「俺も大(たい)したもんだ」というわけです。
しかしうまくいかなければ卑屈(ひくつ)になり、駄々をこねます。
「私なんか、どうせいてもいなくても同じなんでしょ」というわけです。
このような時「あぁ、そう。良く分かったね」などと言ってはいけません。
うしろから刺されます(笑)。
②サタンが誘惑するときは聖書を使う
人生の途上に「誘惑者」という名前の敵が存在します。
サタンという人格を持った存在が果しているのかどうかという問題は大変興味深い問題です。
サタンの働きの本質は人を誘惑して、その人を神の御心を歩む軌道から外すことです。
誘惑者はクリスチャンを誘惑する時、御言葉(聖書の言葉)を用います。
普通に考えれば御言葉によって誘惑されるはずはないと思うのですが、現にイエスが御言葉によってサタンに誘惑されているのを見れば納得せざるを得ません。
③手段が正当であっても動機が真の問題
神がいつでも問題にされるのは、その人の心の中の動機です。
極論するなら動機だけが問題です。
その他のことは枝葉(えだは)に過ぎません。
人間社会においてはそうではありません。
動機を問題とせず、かえって手段を問題視します。
確かに社会関係においては、それは正しいことです。
しかし神と人との関係においては、そうではありません。
手段ではなく、動機が問題とされます。
これは理に適(かな)ったことです。
なぜなら短期的・中期的には動機が正しくなくても、手段さえ不当なものでなければ、その人も周りの人々も不利益を被りませんが、人生全体のスパンから見るなら動機が正しくなければ、その方の人生は虚(むな)しいものとなるからです。
神はその人の人生が祝福あるものとなることを願っておられますから、人の心の中の動機を問題にされるのです。
「動機とか人生全体が祝福されるとかは良いからさ、目の前の祝福くんない?」と言われるでしょうか?
もしあなたが神であったらどうされますか?
自分の子供が「体が健康になり、すくすくと育つための食事は良いからさ、おいしいもの甘いものをくんない?」と言われて、「それもそうだね。ちょっと待っててね。今お菓子を買ってくるから」などという親はいません。
人間の親でさえそうであるなら、なおさら私たちの天の父である神は私たちの人生が全体として祝福されることを深く願っておられるのです。
短期的利益ではなく、長期的利益すなわち人生全体のスパンで考える習慣を身に付けましょう。
いくら手段が正しくても動機が間違っているなら、イエスのように決然と『あなたの神である主を試してはならない』と宣言する勇気を持たなければなりません。
○自分の中に間違った動機で始めているものはないかを確認したいものです。
3.「世界中の富をやるから、俺(サタン)を拝め!」という誘惑
皆さんがサタンからこの誘惑を受けたとしたらどうでしょうか?
ありのパパなら、これが誘惑であるとさえ気づかないかもしれません。
「よう来てくれた。ありがとう。で、いつくれるの?」(笑)。
①1%の人々が国の富の90%を独り占めしている国
我が国の人々にとっては、この誘惑は生きている間には受けることがないかもしれません。
しかしアメリカではそうではありません。
1%の人々が国の富の90%を占有しているのです。
これは残りの10%の富を99%の人々で分け合っていることを意味します。
このことを考えるとき、サタンの「世界中の富をやるから、俺(サタン)を拝め!」という誘惑が聖書の中だけのお話ではないことに気づくのではないでしょうか。
この誘惑に屈した人々がいるからこそ、世界は富の不均衡(ふきんこう)に苦しんでいるのです。
(それだけが富の不均衡の原因であると言っているわけではありません)
②お金を愛さずに、しかもお金から見捨てられない生き方とは?
どんなことでもそうですが、中庸(ちゅうよう)が大切です。
お金はありすぎてもいけませんし、なさ過ぎてもいけません。
ではどのくらいあれば良いのかということになりますが、そのような時「あればある程よい。いくらあっても困らない」という方もおられます。
しかしこのような思考態度は問題です。
何が問題かというと、真に豊かな人生を送るためにはお金のために生きない人生を送る必要がありますが、そのためにこそ沢山(たくさん)働いてお金を貯めなければならないわけです。
しかし、いくらあれば良いのか分からない人は「この額まであれば良い」という明確な基準がありませんから、年齢的に働くことが出来なくなるまで働くことになります。
そのような人に言いたいことがあります。
「あなたはいつそのお金を使うのですか?」
「いや~、死んで子供に遺産として残そうかと思って」
遺産相続争いで子供に苦しみを与えるだけです(笑)。
こうならないためには生涯を通して必要なお金の総額を計算してみることです。
そのお金を(年金が支給される)65才くらいまでの間に貯蓄するのがよいでしょう。
③貧乏と清貧の違い
貧乏だといつも同じ服を着なければなりませんが、清貧な人はいつもきちんとしていることが出来ます。
貧しいとお金についてのトラブルが起きがちですが、清貧な人は貧しい人々に施(ほどこ)すことが出来ます。
穴の空いた服を着ないですむぐらいにはお金はあった方がいいに決まっています。
また貧しい人々に施そうと思った時、施せるだけのお金もあるに越したことはありません。
お金の問題は難しくもあり、また微妙な問題でもあります。
しかし私たちはこの問題についてもイエスの模範にならう者でありたいですね。
◎平安と祝福を祈っています。