リベラル派と福音派が聖書感と異言の問題を論じる

リベラル派クリスチャンとペンテコステ派クリスチャンの興味深い対話です。
内容は聖書観と異言の問題についてです。
どうぞ、お読みください。

        

①質問

その証言を書いたのは、有限な人間なのですから、当然のことながら聖書には様々な誤りや時代的制限があるし、それは仕方のないことなのだ、という見方なのです。

応答

神がご自身を「啓示」してくださり、その啓示を聖霊である神が「霊感」によって聖書記者たちが誤りなく聖書を記すことができるようにしてくださり、聖書を読むときに信者に「照明」を与えて正しくみこころを理解し受け取ることができるようにしてくださるというのが、福音派というか伝統的なキリスト教の理解であると思います。
しかしリベラル派は、[その証言を書いたのは、有限な人間なのですから、当然のことながら聖書には様々な誤りや時代的制限がある]と仰います。
有限な存在である人間だからこそ、神は霊感をお与えになったのではないでしょうか?
様々な間違いや誤りや時代的制限があるのは仕方ないがないと言うなら、そもそも霊感とは一体何なのかということにならないでしょうか?

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

聖書自身が、聖書の全巻に渡って霊感の助けを受けて書かれたのであることを主張しているのです。
このように見てくると、リベラル派のこのことについての主張は聖書の証言と矛盾するのではないでしょうか。
少なくとも私にはそう思えます。

        

②質問

聖書は、イエス・キリストを証ししている書物であって、歴史や科学の教科書ではないのだから、歴史的・科学的に誤りがあるのは別に問題なし、と考えます。

応答

本当にそうでしょうか?
そんなに簡単に、これは信仰の領域、これは歴史的・科学的領域の問題であるというように切り分けが出来るものでしょうか。
一見歴史領域の問題に見えることの中に信仰についての、みこころが示されている場合はどうするのでしょうか。
ちゃんと切り分けると言われるかもしれませんが、私にはすべての領域が神の霊感によるものだと理解し信じない限り、神のみこころを真っ直ぐに受け取ることは出来ないと思われますが、いかがでしょうか。
信仰の領域において示された神のみこころに従うことに抵抗を感じるので、無意識的にその問題を歴史的・科学的領域の問題であるとしてしまうということはないでしょうか。

もう一つの大切な問題は、誤りがあるという判断は人間がするのですから、これは人間を神よりも賢いものとすることにならないでしょうか。
申し上げたいことは、これは破綻している論理ではないかと言うことです。
聖書に対して、これは正しい、これは間違っていると言うのは、よく考えてみると、そのように判断している人間を神よりも上位に置くことです。
しかしすべてのものの上におられるのが神であられます。
この点はどのように理解しておられるのでしょうか?

        

③質問

もし、聖書が、そのまま客観的な意味で「神の言葉」であるとしたら、聖書を読めば、そのまま神様のこと、イエス・キリストの福音が伝わると思うのですが、実際には、聖書を興味半分で読んでも、退屈な宗教書にすぎないと思う人が大部分ではないかと思います。

応答

驚きをもってこの部分を受け止めました。
聖書はすべて誤りのない神の言葉であるので、私たちが従うなら、間違いなく天国まで導いてくれる書物です。
ですから、素のままの私で、ありのままの私でいるときに、最も聖書がよく分かるのです。
これは大切な問題です。
多くの人々が「分かった感じ・理解できた感じ」を求めて、ディボーショナルな書物を求めます。
これが現在問題になっているマインド・コントロールの温床なのです。
たとえ退屈さを感じようと感じまいと、そんなことにはお構いなく聖書を読まなければならないのです。
そのようなとき聖霊である神様が働いてくださるのです。
順序が逆になってはいけません。
聖霊が働かれると、退屈な書物が神の言葉になるのではありません。
神の言葉と信じて聖書を読み進んでいくときに、聖霊が働いてくださるのです。

○ここからは異言と聖霊のバプテスマについて、リベラル派の兄弟からいただいたご質問を考えます。

        

④質問

異言は、聖霊のバプテスマの唯一のしるしであると理解し、異言を語らなければ聖霊のバプテスマは受けていない、と考える人や、もっと極端に(イエス之御霊教会のように)、異言を語らなければ救われない、とまでいう人もいます。
反対に、異言は聖霊のバプテスマのしるしの一つであり、異言を伴わない聖霊のバプテスマもあり得るという立場も存在するのでしょうか? 

応答

聖霊派のなかでも明確に意見が分かれるところです。
ペンテコステ派とカリスマ運動は必ず異言が伴うと信じますが、聖霊第三の波の人たちは聖霊のバプテスマに必ず伴うものとしての異言を認めません。
というか、聖霊のバプテスマそのものを強調することがありません。

        

⑤質問

確かに聖書の中には「水のバプテスマ」と合わせて「聖霊のバプテスマ」についての記述がありますが、両者の関係はどうなっているのでしょうか?

応答

水のバプテスマが救いを表すものとしますと、聖霊のバプテスマは救いの後に続く、救いとは別の経験であるとするのが、一般的なペンテコステ派の理解です。
ペンテコステ派のなかでもウェスレアン系は第二の恵みであるとしますし、カルビン系はそのような理解は持たず、単に救いとは別の経験であるとします。

        

⑥質問

そもそも、ペンテコステ派の「異言を伴う聖霊のバプテスマ」という教理は、前身であるホーリネス教会の「聖化」の教理を発展させたものであると思うのですが、ホーリネスの「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の四重の福音の中で、新生と「聖化」が区別されているように、ペンテコステ派においても「新生(水のバプテスマ)」と「異言(聖霊のバプテスマ)」は明確に区別され、人間の救いは「新生」にあり、聖霊のバプテスマは「クリスチャンへの力の付与」であり、これを受けなくても「救い」に関係はない、と私は推測しているのですが、この点はいかがでしょうか?

応答

その通りです。

        

⑦質問

確かに、クリスチャンとして力強く歩んでいくためには聖霊のバプテスマは必要かも知れませんが、先ほど私が言ったように、クリスチャンは誰でも(リベラル派であっても)「イエスはキリストなり」と告白している以上、水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマも受けていると考えれば、リベラル派のクリスチャンの中にも、信仰の確信を持って、何物も恐れず宣教に励む人たちが大勢いるということの説明もつくと思うのですが如何でしょうか?

応答

そのように言うことも出来ると思います。
しかし信仰の強い人なら、他宗教の人にもいます。極論すると無信仰の人の中にも信念の強い人はおられます。
ですから信仰・信念が強いから、聖霊のバプテスマを受けているということにはなりません。
水のバプテスマと聖霊のバプテスマは別のものであるとの理解が、ペンテコステ教会を他の教会と区別する点なのです。
ペンテコステ教会は、神様がこの真理を宣べ伝えるためにお立てくださったのだと理解し信じています。
そしてその結果が今のようなペンテコステ教会の地球規模のリバイバルを生み出しているのです。
これをどのように理解し、受け止めるかということは個々人のクリスチャンに委ねられていると思います。

        

⑧質問

私が疑問に思うのは、「異言が聖霊のバプテスマの明確なしるし」であるのだとすると、「異言を語った人がそれによってこのように変えられた」というような変化の有無で、その異言が本物かどうかを判断するというのは本末転倒な感じがしなくもありません。
「しるし」であれば、それ自体が「しるし」であるはずなので、その「しるし」が本物かどうかを、異言を語った人の変化によって吟味・判断するのであれば、その人の「変化」の方が「しるし」となってしまうのではないでしょうか?

応答

まさに仰る通りだと思います。
その故にやはりこれは信仰運動としては不健全なものであると思います。
あと「印」であるとする理解も聖書的には弱いと思います。
「必ず伴うもの」とするのが、聖書から見ても妥当ではないかと考えます。

        

⑨質問

そもそも、異言はキリスト教に特有のものではなくて、他宗教でも見うけられる現象です。
その異言が神から来たものか、そうではなく悪霊からきたものなのか、あるいは単に人間の暗示にすぎないものなのかを吟味しなければならない、そのようなもの(失礼な言い方で申し訳ありません)が果たして「証拠」となり得るのだろうか、という疑問が私の心の中に常にあるのです。

応答

聖霊のバプテスマのときに異言が同時に与えられる理由がそこにあると推察します。
聖霊のバプテスマの目的は信者をして御霊で一杯にすることですから、その時が霊的には一番安全なときです。
ちょうど手術を無菌室で行うように、異言が与えられるとき間違って神以外の霊的存在からの異言を受け取ってしまわないために聖霊のバプテスマによって御霊で一杯になっているときに異言を神がお与えになられるのだと考えます。

        

⑩質問

使徒行伝2章のペンテコステの出来事の中で、弟子たちに聖霊が下ったとき、彼等は「異国の言葉」で語り出したとあります。
そして、弟子たちが語る言葉は、外国から来た人々に理解できた、とあります。
ということは、ここで弟子たちが語ったのは、いわゆる「異言」ではなくて、弟子たちが知らないはずの「外国語」だったということになりませんか。
知らないはずの外国語を語ることも「異言」の一種とみなされているようですが、果たして本当にそうなのかどうか、聖書にはその明確な答えはありませんが、なぜペンテコステ派では「外国語」も「異言」の一種と考えるのでしょうか。
それは、少しいじわるな見方をすると、そのように理解しないと、聖霊が下って異言を語ったという教理が成立しないからとも思えてしまうからです。

応答

実は私もそのように思っていた時期がありました。(もちろんペンテコステ派に合流する以前のことですが。)
しかしよく考えてみると、どのような「異言」をお与えになるかは、神に主権があることであり、神がみこころに従って、ある時は外国語であったり、またある時は神様との個人的な祈りの言葉であったりしても少しも不思議はないと思いますがいかがでしょうか。

確かに仰る通りペンテコステの出来事は私たちが知っているような異言ではなく、まぎれもなく外国語でした。
しかしそれは今申しましたような理解によるなら、何ら問題はないと思います。
もちろんこの主題に関して聖書は明確に語っていませんから、論理的に破綻のないように、聖書に矛盾のないように、ペンテコステ派の神学から説明したにすぎません。
これは第一に大切な問題ではなく、解釈や理解に幅を持つことが許される領域の問題であると考えます。

聖霊第三の波の神学者が「聖書が明確に主張していることは私たちも明確に主張しなければならない。そして聖書が必ずしも明確に主張していない事柄については、私たちも同様にあまりに明確に主張することは避けなければならない。」と言われている通りです。

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