自分では受容されることを求めていると思っていても、実は肯定されることを求めている場合があります。
この記事では肯定されることと受容されることの違いを解説しています。
1.肯定されるのを求めるとは自分の意見に同意してもらうこと
子供たちを見ていると、似た者同士が友達になっています。
これは相手が自分と同じだと、相手を理解する手間(てま)が省(はぶ)けるからです。
しかし自分と似た人とばかり友達になっていると、いつまで経っても他者を理解する能力が成長しません。
これが学校では優秀な成績を残すことが出来た人であっても、自分と違う人と信頼関係を作らなければならない実社会ではうまくやっていくことが出来ない場合がある理由です。
そうならないためには学校にいる間に、自分と性格の違う人と友達になって、うまくやっていくやり方を身に付けておく必要があります。
2.受容されるのを求めるとは自分自身の存在を肯定してもらうこと
「うまく出来たら合格」「失敗したら不合格」というのが成果主義の考え方です。
言葉を換えて言えば、律法主義であり、二元的生き方ということになります。
このようなテープが知らず知らずのうちに自分の中で回っている人は意識するとしないとにかかわらず他人にも同じ生き方を求めます。
ある人は他人に対してこのような接し方をする自分が嫌で、意識的に他人と深く交わらないようにしている人もいます。
しかしそんなことをしなくても、自分も解放され、隣人にもありのままを受け入れる接し方ができる生き方があります。
3.肯定されることを求めているにもかかわらず、受容されるのを求めていると勘違いしている場合何が起きるか?
a.いつまで経っても受容されたという喜びを体験できない。
b.相手に対する期待が高まる余りに、それはいつしか怒りと絶望に変わる。
c.あきらめと虚無感が自分を支配するようになる。
対処方法
相手に求めているのが肯定である場合は、まずそのことに気づく。
そして自分自身を肯定してくれる人など、神様を含めて誰もいないことを理解する。
4.相手が受容してほしいと言いつつ、実は肯定されるのを求めている場合、私たちはどうしたら良いか?
a.相手の行為と存在を分けて考える
これは相手がやったことや言っていることと、相手の存在そのものを分離するということです。
多くの場合、建前では分かったつもりになっていても、いざその場に出くわすと「行為と存在を分ける」ということがそんなに簡単なことではないのを知ります。
b.相手の方に「あなたの行為は受け入れられないが、あなたの存在はありのままで受け入れている」と伝える
多分、相手の方は「そんなの偽善だ。私のことを本当に受け入れるというなら、私の行為をも受け入れるのが当然だ」と言うでしょう。
そのときが、ありのまま人生を生きる私たちの正念場です。
初めの頃は、そのような現場に居合わすと足がガタガタと震えます。
しかし場数(ばかず)を踏(ふ)むと、心の中で「ほら、おいでなすった。その手は食いませんよ」と正面から余裕をもって受け止めることが出来るようになります。
c.相手があくまで自分の行為を受け入れるように要求するとき、私たちはどうすれば良いか?
スーパーマーケットで小さな女子が「買って!買って!買ってくれなきゃ、ここから動かない~」と床に寝ころがって泣き叫んでいました。
ありのパパはその女の子のお母さんはどのような対応をするだろうかと見守っていました。
そうしたところ、お母さんは満面の笑みを浮かべて「かわいい~!床の上でグルグル回ってみて~」と答えたのでした。
女の子は「馬鹿馬鹿しくてやってられねぇ」と思ったかどうか知りませんが、虚(きょ)を衝(つ)かれたような顔をしていました。
対応の仕方はその場の状況によって変化します。
しかしあなたでなければ出来ない、あなたならではの対応方法をお持ちになることがきっと出来るようになります。
自分が変わり、相手が変わる最も確実な方法は、相手の行為を肯定せずに、相手の存在を受容することです。
◎平安と祝福を祈っています。