キリスト教の神様は私たちの弱さを思いやることのできる主です!

思いやりには三つあります。
一つは人々からやってくる助けです。
二つ目は自分が自分自身に与える思いやりです。
三つ目は神からやってくる思いやりです。
今日は三つ目の「神からやってくる思いやり」について皆さんとご一緒に考えます。

1.万能感というやっかいなもの

律法主義の根っこにあるのが万能感です。
万能感とは「自分は何でも出来る。やってやれないことは何もない」という考えです。
万能感に囚われないで生きていける人は誰もいません。
全ての人が気を付けていないと、万能感に囚われてしまいます。

2.文化などの慣習に従うようにとの圧力

私たちはともすれば「長いものには巻かれろ」的な行動をとる誘惑にかられます。
これは全ての人が持っている弱さです。
巻き込まれて従ってしまえば、それは罪となります。

3.カルト的な教会

カルト的な教会の内部で、信者やスタッフは主任牧師に盲従(考えないで従うこと)するようにとの無言の圧力が掛かります。
この圧力に負けてしまいそうになる弱さを、全ての信者が持っています。
しかし盲従した結果として隷従(奴隷のように従うこと)するようになると、それは神の御前で罪となります。

4.罪を犯した人は良心に責めを感じる

良心が責められるとき、その人の前には二つの選択肢があります。
一つは悔い改めて、盲従・隷従することをやめ、病的な支配関係から脱することです。

もう一つは悔い改める代わりに自分の良心をごまかすことです。
「あの人が悪い」「この人に問題がある」として真の原因から目をそらします。
その結果として行き着くところは呪いと滅びです。

5.神の憐れみを体験する道

主イエスが私たちを思いやってくださるのを体験するには、神との人格的交わりが必須のこととなります。
神との人格的交わりなしには、主の思いやりを体験するなどは絵に描いた餅に過ぎません。
ではどうしたら神との人格的交わりを自分のものにすることが出来るのでしょうか?
長く祈ることでしょうか?断食することでしょうか?聖書を深く学ぶことでしょうか?

①自分の無力を悟ること

「自分は出来る」と思っている限り、神と人格的交わりを持つことは出来ません。
なぜなら、それは自分が神となっているからです(笑)。
「私は無力そのものの存在である」と認めるとき、ごく自然に神との人格的交わりが出来るようになります。
なぜなら、それは自分が罪人であることを気づいたからです。
神との人格的交わりとは、救い主と罪人との間にある人格的交わりを指しているのです。

②今日一日を生きること

過去の出来事を悔やんでいる人に神との人格的交わりを持つことは出来ません。
同様に将来のことを心配している人も神との人格的交わりを持つことが出来ません。
神と人格的交わりを持つことが出来るのは、今日一日(きょういちにち)を生きている人だけです。
私たちは無力であり、明日のことを心配する能力も、昨日のことを悔やむ能力も持ち合わせていません。
持っているのは(与えられているのは)、今日一日を生きる力だけです。
明日のことは明日に心配させておけば良いし、昨日のことは昨日に悔やませておけばよいのです(笑)。

私たちクリスチャンのためには天に昇られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰をしっかりと持っていようではありませんか![ヘブル4:14]

◎祝福と平安を祈っています。

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