キリスト教の教会にも信徒組織が必要ではないか!

この記事では、キリシタンの「講(こう)」や中国・家の教会の信徒組織について解説しています。

        

1.信徒組織と信徒組織の「ようなもの」との違い

①真の信徒組織とは信徒のみによって構成される組織

活動力が旺盛な信徒組織を見てみると、それらは信徒によって自主運営されているところばかりであるのが分かります。
しかしキリシタンにおける講は、何も信徒が好き好んで信徒のみの講を作ったわけではありませんでした。
時の政府によって宣教師が全員国外追放になってしまったため、信徒が運営するほかはなかったのです。
現代の中国・家の教会の場合も、共産党政府によって福音主義教会の牧師が全員投獄されてしまったため、残された信徒がやむなく自宅で集会を始めたのがそもそもの始まりでした。

②牧師制度を否定する人々

これに対して牧師を頂点にする既存の教会制度を批判して「エクソダス」した人々は、自覚的決断によって牧師のいない集会を作りました。
ブレザレン系の教会も牧師の存在を認めません。
自覚的決断によって牧師の存在を否定する教会を形成した、これらの人々には共通点があります。
それは閉鎖的であること、警戒心が強いこと、被害者意識が強いこと、他教会を否定する主張が自分たちの存在の根拠になっていることなどです。

③カルト化の温床になる場合もある

迫害によって牧師がいなくなり、やむなく信徒中心の教会形成が進んだケースはうまくいっているのですが、自分たちの自主的判断によって信徒のみの集会を形成している場合はカルト化傾向がある場合が多いようです(全ての場合においてそうだと言っているのではありません)。

        

2.信徒組織とは何であって、何でないか?

①信徒組織は単なる聖書研究会ではない

ある時期、聖書研究会が小集団活動のモデルケースとしてもてはやされたことがありました。
しかし聖書研究会は教える賜物をもっている人と、学ぶのが好きな人には良いのですが、そうでない大多数の人々にとっては単なる退屈な時間に過ぎなかったようです。

②信徒組織は何かをやるための集まりではない

日本の教会は礼拝会では礼拝を、伝道会では伝道を、祈祷会では祈りをします。
これはそれになれた日本人クリスチャンにとっては当たり前のことですが、韓国の教会では当然のことではありません。
韓国教会は礼拝は日曜の午前中だけではありません。
水曜日にやるのは祈祷会でなく水曜礼拝ですし、朝早くやるのは早天祈祷会ではなく早天礼拝ですし、同様に金曜の深夜にやるのは徹夜祈祷会ではなく徹夜礼拝です。

③キリスト教共同体とキリスト教販売会社

ありのパパの個人的見解ですが、礼拝だけして本当にそれが礼拝になるのか、伝道だけしてそれに主の御臨在と御同行が伴うのか、祈りだけしてその祈りは聞き届けられるのか、非常に懐疑的です。
伝道が目的になっている集会に連れてこられた未信者は、主の共同体に戻ってきた罪人ではなく、キリスト教セールスマンにうまく丸め込まれた哀れな騙されやすい人々であり、そこでなす決心はあたかもキリスト教販売会社と取引することを決める契約書のような気さえします。
ここには人格的交わりが入り込む余地は余りありません。
本当の信仰から出てくるものは礼拝と宣教と祈りが一体になっているものではないかと考えるのですが、皆さんは如何お考えでしょうか?

        

3.信徒組織に必要な霊的特質とは何か?

①日本の教会の体質と日本文化の関係

日本の教会は牧師が信徒を裁くし、信徒も牧師を裁きます。
これは鶏が先か、卵が先かという議論と同じかもしれません。
まず日本文化そのものに人を裁くという傾向が強くあります。
あるネット上の相談所に、奥さんが「浮気がばれて夫に離婚されそうになっている。どうしたら良いだろうか?」という質問がありました。
その質問に対する答えは裁き度100%のものばかりでした。
読んでいてありのパパは段々胸が悪くなりました。
罪深いのは浮気をした奥さんであると初め思っていたのですが、あとになると最も罪深いのはこの質問に答えている人々であるということが分かってきました。

②人を裁く教会には未信者はやってこない

このような文化的傾向をクリスチャンになったあとでも引きずっているゆえに、教会の中に裁きが入ってくるように思います。
神学校で聖書を学んだはずの牧師でさえ裁き度満点の説教をしますから、この問題は一筋縄ではいきません。
集まってくる信徒も牧師の悪口を言うのに忙しいというのであれば、これでは未信者が来るはずもありません。
クリスチャンだけでなく未信者も、ありのままの自分を受け入れてくれるところを求めているのです。

③自助グループで行われているミーティングを教会でもやってみる

まとめるとこうなると思います。
キリスト教会が行う集会には罪から救われるということと天国に入るという明確な目的があります。
これを前提にしつつ集まりには明確な目的を置きます。

そして私たちお互いは決して裁き合わず、ありのままで受け入れあう。
その現れとして、言いっぱなし・聞きっぱなし・他言無用の原則を守ります。

日本においてキリシタンの時代にあったようなリバイバルをもう一度再現するために、信徒中心の集会がどうしても必要です。
あなたのご意見をお聞かせください。お待ちしています。

◎平安と祝福を祈っています。

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