聖書の正しい読み方と間違った読み方。依存的信仰と自律的信仰の違い

聖書の読み方には正しい読み方と間違った読み方があります。
間違った読み方をすると依存的信仰の持ち主になります。
正しい読み方をすると自律的信仰者となります。
この記事ではどのような読み方が正しい読み方なのかを解説しています。

1.教理という色眼鏡を通して聖書を読んでいないか?

私たちは日頃、聖書を信仰の書として読んでいます。
それはある意味では当然なのですが、気をつけないと「自分の読みたいように読む」ことに陥ってしまう危険があります。
正統的な聖書信仰の持ち主であっても、自分のフレームという色眼鏡を通して聖書を読むなら、聖書の正しい理解は出来ないということです。

ありのパパは初信の頃、聖書を読んでも何を言っているのかサッパリ分かりませんでした。
理由は二つあり、一つは聖書を教理の本のように読んでいたからです。
聖書は教理を教えるようには書かれていません。
聖書は生活を通して、また例話を通して、人々に内面的な気づきを与えるように書かれているのです。
ですから気づきを得ようとせず、論理的な理解を得るためにのみ聖書を読んでいる限り、聖書は的を得ない書物のままです。

もう一つの理由は聖書を読むことによって霊的な体験を得ようとしたことです。
敬虔派を源流とする福音派教会は霊的な体験というものを大変重要視します。
救いの経験と聖霊のバプテスマの経験のほかに、あと残っている明確な経験は何かご存じでしょうか?
そうです。肉体の死の経験です。
救われて、さらに聖霊に満たされたら、信仰者にはもう明確な信仰の体験は残されていません。
それにもかかわらず「味をしめる」と言いますか、なにがしかの信仰の体験をどこかで求めているのです。
これは信仰体験依存症とでも呼ばなければならないものです。
残念ながらこの病に掛かっている福音派・聖霊派クリスチャンが多くいるようです。

2.聖書は信仰者が地上生涯を地道に歩むために書かれている

信仰体験のデパートにでも出かけていくような気持ちで聖書を読んでしまうと不健全なことが起こります。
自分に都合の良いように聖書から聖句を抜き取って解釈を施します。
異端とかカルトとか呼ばれる人たちの主張がこれに当てはまります。

心理的なフィルターには「真面目であれよ」とか「(自力で)聖くあれよ」とか「霊と魂の切り分け」とか色々あります。
この心理的フィルターは無意識の領域にあるものですから、普段私たちはこんな自損意識があるとは思ってもみません。
そうするとどうなるかといいますと、無意識の自損意識と敬虔の心情が容易に結びつくことになります。
典型的なのが「私さえ我慢すれば」というものです。
本当のことを言えば「あなたが我慢しても誰も幸せになりません」というのが真実です。
なぜならば「自分自身を愛している分しか隣人を愛せない」にもかかわらず、肝心要の自分自身を粗末にしているのに、どうして隣人を愛することか出来るでしょうか?」というわけです。
決してそんなことは出来ることではありません。

3.神がしてくれるのか、それとも自分がやるのか?

結婚相手を神が与えてくださると信じているクリスチャンは沢山います。
いわゆる適齢期を過ぎるころまでに良い相手が見つかれば良いのですが、そうならないときもあります。
そのようなとき本人も所属する教会の牧師も思案に暮れることになります。
なぜならそのような人に限って信仰熱心であり、教会の奉仕も良く行い、非の打ち所が無いからです。
まさかそのような人に「誰か良い人がいたら自分から捕まえに行ってみたら」とは言えません。
たとえ言ったとしても「いいえ、そんなことをしなくても神様が良い人をきっと与えてくださいます」と言い返されてしまいます。

旧約聖書にはイサクのお嫁さんを探しに行くために遠い所まで探しに行ったとあります。
これは祈っていたら突然そのように示されたのではありません。
神を信じる生き方を継続するなかで自然に身についた知恵によって、人間の側の自発的な行動として行われたのです。

新約聖書にはパウロが宣教旅行に何度か出かけたことが記されていますが、そのうちの多くは聖霊の示しによらず、パウロの人間的な決断によって行われたものです。
しかし聖霊なる神は、ご自身の明確な示しによって始めた宣教旅行のときと同じように御臨在と御同行の祝福を与えておられます。

はっきりと言えることは「聖霊の導きがなければ私は宣教旅行を行わない」などと言う人がいたら、その人は本当には宣教の情熱を持っていない人だということです。
そのような人は死ぬまで聖霊の導きを待つことになるでしょう。

神はあなたを奴隷のようにご自分の思う通りにこき使おうとするような方ではありません。
そうではなく神はあなたと共に、あなたの人生をご一緒に生きていきたいと願っておられます。
なんと私たちの信仰生涯は自由で喜びに満ちあふれたものでしょうか!

◎平安と祝福を祈っています。