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①隣人に対する二つの態度
隣人とは自分の家族であったり、友人であったり、はたまたお隣の国を指していたりします。
自分という存在と隣人という存在があるとき、私たちは二種類の対応のどちらかを取るものです。
たとえば夫婦喧嘩をして口も聞きたくないという雰囲気の時、ふっと我に返る時があります。
それは感情の行き違いで喧嘩をしたが、今も変わらず自分はパートナーを愛しているという事実に気づくということです。
このような時、ばつが悪くて自分から「私が悪かった。今も君のことを愛している」と中々言えないものです。
しかし、ばつの悪さに打ち勝って言葉を発するなら関係は修復されます。
もし感情に流されて「黙っていてもそのうち何とかなるだろう」と高(たか)を括(くく)っているなら、二人の愛は薄氷のようになって、思わぬ衝撃が加えられると、関係は破綻してしまうことになります。
②愛するにはエネルギーがいる
愛している最中は愛することが簡単に思えます。
しかし段々と感情が醒めてくると、相手のアバタがエクボに見えていたのが「アバタはアバタでしかなかった」ということに気づきます。
ある心理学者は恋愛期間は三年であると言いました。
確かに努力なしで相手を愛することが出来るのは三年が限度でしょう(誰ですか。三カ月が限度などと言っているのは)(笑)。
③相手を愛するエネルギーはどこからやってくるか?
ペンテコステ派のクリスチャンなら「やはり聖霊充満かな?」と言われるかもしれません。
でもね、元気の良さと相手を愛するということは全然別物のようです。
自分以外の人を愛するエネルギーは自分自身からやってきます。
もっと正確に言うと、あなたが自分自身を愛している分だけ自分以外の人を愛することが出来るということです。
④遠くの誰かであれば愛している振りが出来るが、近くの人を愛している振りをするのは難しい
自分の子供を愛さないで、親戚の子供たちばかりを愛するお父さんがいるとします。
子供たちは「よその子供を愛する暇があったら、自分の子供を大切にしろよ!」と思っています。
なぜお父さんがよその子供を大切にするかというと、自分の子供は一緒に住んでいて粗(あら)がよく見えるので愛そうとしても愛するのが難しく感じるのです。
これの理由はお父さんがお父さん自身をありのままに受け入れ愛していないところに原因があります。
お父さんが自分自身に向かって「欠点のない自分でなければ愛される資格がない」と無意識のうちに言っているのです。
遠くの人や国を愛するのは簡単なことです。
なぜなら相手の粗が見えませんから。
しかしそれは愛ではなく、愛しているふり(愛情ごっこ)をしているのに過ぎません。
⑤本当の愛は「出来の悪い子ほどかわいい」と言う
自分自身の中にある欠点や醜さを全部ありのままで受け入れていると、自分の子供に同じ欠点を見る時、嫌な気持ちにならずに共感が湧き起こってきます。
これは自分の子供に限らず、夫婦関係にも言えることであり、職場の人間関係にも適用できることです。
ヨーロッパやアメリカを憧れ愛するのは、ある意味では簡単なことです。
しかし隣国の韓国や中国を愛するのは、本当の愛がなければ出来ないことです。
私たちは自分自身を愛しているでしょうか?
そして自分の国のなかにある欠点や醜さを含めて愛しているでしょうか?
もしそうであれば私たちは同様に欠点や醜さのある中国・韓国の人々を愛することが出来ます。
私たちは神の御前で御心に忠実に歩みたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。