①ありのパパの教会にいた在日朝鮮人クリスチャンのこと
ありのパパの田舎には「村の小さき教会」という賛美歌どおりの教会がありました。
その教会を忠実に支えていたお一人が在日の朝鮮人の方でした。
ありのパパが救われて、その教会に通いだしたときには既にその方はずいぶんお歳を召しておられました。
しかし教会の全ての集会に出席され、またボランティアで道路や公園の掃除をしておられました。
家族もなく、お一人で住まわれておられました。
ある人が「一人で寂しくないですか?」とお伺いすると「イエス様がご一緒におられるから寂しくないです」と柔和な笑顔をもって答えておられました。
これが顔を引きつらせて「ふん!寂しくなんかない!」と答えたのなら、やせ我慢で言っていると思うのですが、本当に柔和なお顔だったので「信仰が深くなると、このような心境になるのかもしれない」と思ったことでした。
この方をありのパパが見ていて感じたのは、単一の心の持ち主であるということです。
あれとこれを天秤(てんびん)に掛けて得なほうを選ぼうという魂胆がない方でした。
別に日本人クリスチャンを悪く言う気はないのですが、日本人はあれを気に掛けて、これも気に掛けてと、結局何が言いたいのかさっぱり分からないという人が案外多くおります。
この在日の方は「はいははい、いいえはいいえ」という方でした。
また、歳をとって円熟したせいか、韓国人に良く感じることがある気性の激しさを感じることもありませんでした。
柔和な日本人が、きっぱりした韓国人の信仰を持っている感じといえば良いのでしょうか。
今でもこの方のことを時々思い出しては懐かしさに浸るのです。
ありのパパにとっては、この在日のクリスチャンは「こうなれば良い」というお手本のような存在でした。
②韓国人の長老牧師のこと
ありのパパが神学校に通っていたとき、韓国人の教師がおられました。
この方は在日の韓国人牧師として戦前・戦中・戦後の困難を乗り越えてこられた方です。
この方の授業はほとんど思い出話で終始いたしました(笑)。
しかし余りにその話が興味深く、授業よりその話を聞けた方が何倍もためになりました。
戦中、警察署長に呼ばれて尋問を受けたことがあったそうです。
取り調べによってその方の潔白が明らかになったとき、署長さんは謝りました。
しかし血気盛んだったその先生は怒りの余り警察署長に向かって「土下座して謝れ!」と怒鳴ってしまいました。
そうしたところ何とその警察署長は土下座して謝ったのでした。
その当時は関東大震災で朝鮮人大虐殺があったのです。
そのような時勢に、良く怒鳴ったものだとありのパパは感心したのですが、先生は続けて「警察からの帰り道、『私は救われたといいつつ、少しも心が変わっていない。神様、どうか私の心が暴発しないように変えてください』と泣きながら、神に悔い改めました」と言われました。
ありのパパはその話を聞きながら「一体どれだけ謙遜になったら、そんな風に思うことができるのか?」と感動を通り越して訝(いぶか)しんでしまいました。
③東京・新大久保駅での韓国人留学生のこと
もう覚えておられる方も少なくなったかもしれませんが、新大久保駅で酔っぱらったおじさんが線路に落ち、それを救おうとした韓国人留学生が列車にひき殺された事件がありました。
その方のご両親が来日されたとき「私たちの息子は当然のなすべきことをしたに過ぎません。しかしどうか皆さんにお願いしたのです。『こんな人もいた』と息子のことを忘れないでほしいのです。それだけが私たちの願いです」と涙で顔をクシャクシャにしながら語っておられたのを忘れることが出来ません。
新大久保駅にはその事故を祈念するプレートが駅通路に埋め込まれています。
ありのパパは東京に用事があって近くに行くたびに、この事件を思い出します。
このプレートの前で祈っている人がいたら、それはありのパパかも知れません。
④初代教会の中にあった民族差別意識
初代教会の中にも差別感情があったようです。
新約聖書の『使徒の働き』の記述からそのように考えることが出来ます。
それはギリシャ語を話すユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人の間で食糧配給に関するトラブルが生じたことによって推察することが出来ます。
配給する側にはヘブル語を話すユダヤ人が多くおり、配給される側にはギリシャ語を話すユダヤ人が多くいたようです。
このような場合にどのようなトラブルが起きるかは容易に想像することが出来ます。
それまでは組織化されていない(ということは教会からの公式の認証を受けていない)人々が自発的に奉仕をしていたのでしょう。
そのような中で配給の不公平という失敗が起きてしまいました。
初代教会はこの問題を執事会という今まで存在しなかった組織を作ることによって克服しました。
⑤日本人クリスチャンの中にある嫌韓感情のこと
現在、韓国人宣教師による人権侵害の問題に日本の教会は直面しています。
日本人クリスチャンの中から様々な意見が出てくるのは当然のことです。
そしてあるべき日韓の教会の関係を導き出さなければなりません。
しかしそのような論議の中で、どう見ても異常性を感じざるを得ないような意見もあります。
この議論の根底になければならないのは、韓国の人々は日本人を愛してくださり、日本の人々もまた韓国の方々を愛していくという関係です。
相互の愛の関係を基盤にして、あるべき相互の姿を探っていくなら大変有益な結果を生みだすことができるでしょう。
しかしそうではなく愛が冷え、相手を裁く心をもって相対するなら、そこから導き出される結論は神の御心から遠く離れたものにならざるを得ないのではないでしょうか?
韓国と日本の教会は離れようとしても離れることが出来ない関係にあります。
しかし別々の存在であることも確かなことです。
離れることが出来ないとは、愛の関係で結ばれなければならないということであり、別々の存在であるとはお互いは決して融合してしまうような関係にはないということです。
ときには日本と韓国の教会のあるべき関係を考えてみるのも良いのではないかと思います。
◎平安と祝福を祈っています。
はじめてコメントさせていただきます。
ボク個人としては、在日の方々は100%日本人だと思っております。
ですから、今、問題になっている韓国の宣教師たちの横暴ぶりを、一番、悲しんでいるのは彼ら在日の方々ではないでしょうか?
彼らは祖国に帰っても半チョッパリ(日本人の蔑称)と忌み嫌われ、日本では在日
と蔑まれる・・・。
本当に踏んだり蹴ったりです。
そもそも権威主義的な儒教国でもある韓国のキリスト教は、日本には不向きです。
ウチの教会もベレヤに始まり、教会成長だのリバイバルだの弟子訓練だのの度に
骨肉の争いと分裂を繰り返し、あげくの果てに自殺未遂者まで出しました。
何にでもキムチをブチ込もうとする彼らの強引な手法には、もうウンザリです。
日基にしても、戦前・戦中の日帝時代のコトを公の場ですでに謝罪しています。
しかし、彼らがそれを認めて赦したでしょうか?
それも、日帝時代=36年+戦後65年とすると100年も前のコトです。
それで彼らは繁栄したではないですか?
むしろ彼らの日本宣教は、ハンの恨みを晴らしに来ているとしか思えません。
コレを一言で国民性と言うのであれば、それでも良いと思います。
しかし、それは差別ではなく区別です。
在日の方々の為にもこの点、白黒ハッキリつけるべきかと思いますが、アリパパのご意見はいかがでしょうか?
シャローム
タナカツさん、こんにちは。
初めてのコメントをありがとうございます。
コメントされる方には自己紹介をお願いしています。
当ブログの「電話相談ご希望の方へ」をクリックしていただくと、自己紹介についてのお願いが書かれてあります。
それをお読みくださり、自己紹介をお願いいたします。
よろしくお願い申し上げます。
タナカツさん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
○「在日の方は日本人である」と思っているのはタナカツさんの思い込みに過ぎません。
他人がその方のアイデンティティーを決するという罪を、なぜ犯すのでしょうか?
自分が何者であるかはその方ご自身が決めるべきものです。
○韓国経由のキリスト教を儒教的であるとすることには異論はありませんが、それがなぜ日本には不向きなのかの説明が全くありません。
では物質主義・個人主義的傾向のあるアメリカ経由のキリスト教は日本には向いているのでしょうか、それとも不向きなのでしょうか?
問題はどこを経由したからというところにはなく、それを無批判に受け入れた(受容するのではなく肯定してしまった)日本の教会にこそ問題があると考えますが、その点如何お考えでしょうか?
○日本基督教団の謝罪は全く不十分なものです。
こんな明白なことを否定するのは「黒を白と言いくるめる」ようなものです。
タナカツさんはこれを「差別でなく区別である」と仰っていますが、このどこが差別でないのでしょうか?
差別そのものであると思います。
○問題の核心はタナカツさんの中にある差別意識ではないでしょうか?
自分の中にこそある解決しなければならない問題を棚に上げて、人様のことを「ああだ、こうだ」と言っても時間の無駄ではないでしょうか?
◎またコメントしてください。お待ちしています。
話しが前後しました。
自己紹介
超教派の福音派の教会の礼拝に参加していますが、教会員ではありません。
この点においては、どうも「ありパパ」さんとは意見が真っ向からブツかるようでうですネ!
「ご意見をどうぞ!」と言うことでしたので自分なりの意見を申しあげましたが、時間のムダだと言われるのならやめときましょう・・・。
失礼しました。
シャローム
タナカツさん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
そうですね。仰る通り自分の中にある問題に目をつぶったままでは、いくら議論をしても時間の無駄になるばかりだろうと考えます。
どうぞ、神の導きによってご自分の中にある差別意識に向き合うことが出来るようになったら、またコメントしてください。
そのときまで。シャローム
そうやって、何でも「差別だ!」と言って騒ぎ立てるのですよネ・・・。
「在日は日本人でしょ!」と言う発言の、どこが差別でしょうか?
いくら謝罪したって、どうせいつまでも不十分なのでしょ?
今日、アナタの本当の姿が分かりました。
主に感謝です。
どうか自虐的な信仰から、アナタさまが解放されますように・・・。
アーメンそしてシャローム
タナカツさん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
○別に騒ぎ立てておりませんが(笑)。
あなたの中にある差別意識が真の問題なのではないかと、静かに指摘させていただいているだけです。
在日の方が日本国籍をもっているなら日本人であるということは間違っておりません。
しかし日本国籍を自覚的に取得せず、韓国人・朝鮮人であろうとしている人々を「日本人と言って何が悪い」と居直るあなたの厚顔無恥さにあきれ果てます。
○どうぞ、すこしのやりとりで「本当の姿」が分かったなどと思い込みませんように。
どうか、タナカツさんが妄想と捏造の信仰から解放されますように‥‥‥‥。
またコメントしてください。お待ちしています。
シャローム
こんばんは、うるさ方のJクルスです。
この方の単純素朴な信仰の背景には、本当に凄まじい人生の苦悩体験があったのでしょうね。
しかし、そのことと真っ直ぐに向かい合ったからこそ、イエス様との本当の出会いがあったのでしょう。
このことは、本来ならば日本人とか、朝鮮人とか、韓国人とかいう区別はないはずですが。
ちなみに私は、ある韓国人の若いシスターと親しく交流をさせていただいていますが、彼女は、本国(地上の本国)には、信仰面で、共感しあえる仲間がたくさんいるから、いつも彼らの祈りに支えられているのですよ。とのことでした。
ことことが、なにか大きな差を生んでいるのでしょうね。
あと、それと「村の小さな教会」は、今はカトリックとなった私も大好きな聖歌の一つです。
Jクルスさん、こんばんは。
コメントをありがとうございます。
そうですね。韓国人キリスト者と交わってみて感じるのは、彼らには言い訳がないということです。
これは私たち日本人キリスト者にはない特徴であると思います。
キリシタンの時代に私たちの先輩は命懸けで信仰を守り通しました。
当時のクリスチャンが60万人~200万人いたと言われますが、その人たちは三分の一は殉教、三分の一は潜伏(隠れ)キリシタン、三分の一は海外へ追放という道を選びました。
「主よ、どうぞ私たちも生きている殉教者としてください」とは私の切なる祈りです。
それとともに「主よ、今日一日を生きる力だけを求めます。よろしくお願いいたします。」という祈りをもって一日を始めます。
またコメントしてください。お待ちしています。