聖霊派教会に必要なこと

聖霊派教会

プロテスタントの教派の中で最大のものはペンテコステ派です。
さらにペンテコステ派の影響を受けて発生したカリスマ運動と「聖霊第三の波」運動を含めると、聖霊派教会はキリスト教最大の教派ということが出来ます。

しかしペンテコステ運動の教えが他教派に及ぶに際して、元々ペンテコステ運動がもっていた教えを差し引いて受け入れるということが行われました。
このことが現在のキリスト教の混乱の遠因になっているのではないかと、ありのパパは考えています。
そこで聖霊派教会が立ち返るべき本来の姿はどのようなものであるかを考えます。

        

1.異言で祈る賜物を活用した神との人格的交わりを強調すべきこと

ペンテコステ運動は「異言を伴う聖霊のバプテスマ」の教理が中心的な教えです。
「異言で祈る賜物」を用いての神との人格的交わりが、ペンテコステ運動の驚異的なリバイバルの真の理由でした。

しかし「聖霊第三の波」運動においては、この教理は等閑(とうかん)に付されました。
彼らから見ると、異言の賜物という古くさい、教会を分裂させる危険のある教えは棚に上げておいて、ペンテコステ運動のリバイバルだけを欲しいと思ったのでしょう。

しかし神からの恵みを受取る恩寵の手段としての「異言で祈る賜物」を無視しては、神の驚くような御業を受取ることは出来ないのです。

        

2.聖書信仰が看板倒れで終わらず、具体的問題に表明されるべきこと

①セカンド・チャンス論のこと

ペンテコステ運動は強固な聖書信仰を土台として出発したものです。
ですから信仰の内容は福音主義キリスト教そのものです。

「聖霊第三の波」運動の指導者と目される方はセカンド・チャンス論の信奉者です。
セカンド・チャンス論とは死後にもう一度イエスを信じる機会が与えられると教える異端的な教えです。

死後にイエスを信じる機会が提供されて、それを拒否する人はいないと思われますから、この教えは実質的にすべての人が自覚的な信仰の決心をせずに救われるという教えと同一です。
(驚くべきことに、この論の主唱者は「それでもなお全ての人が信じるとは限らない」と言われていますが、これは詭弁にすぎません。)

このような異端の教えを奉じる人を聖霊派の代表として認めてはなりません。
神は私たちの口で告白することを見ておられます。
もし私たちが初代教会の使徒たちのように「人に従うことと神に従うことと、どちらが大切なことでしょうか」と言わないなら、神もまた初代教会のときにあったような聖霊の御同行と御臨在を現代の教会にお与えにならないのではないでしょうか?

②南京大虐殺否定論のこと

カトリックとプロテスタントのリベラル派における聖霊運動であるカリスマ運動の指導者は、太平洋戦争は侵略戦争ではなかったし、南京大虐殺も従軍慰安婦もなかったとする妄想(もうそう)と捏造(ねつぞう)の歴史観を熱心に主張しておられます。

歴史の加害者でもあり被害者でもあるキリスト教会から、このような間違った歴史観を主張する方が出てくることを大変残念に思います。

戦前の内村鑑三の不敬事件も、美濃ミッションの日曜学校生徒の神社参拝拒否事件も、ホーリネス教会弾圧も、この方にとってはどうでも良いことなのでしょうか?

また太平洋戦争を侵略戦争でないとする立場は、侵略を受けた国で働く日本人宣教師の働きを御破算にすることに通じるのを、この方はどのように考えておられるのでしょうか?

明々白々な事実を否定する人を許容してはなりません。
彼がカリスマ運動の指導者であろうが、大教会の牧師であろうが、そんなことは神の御前では何の意味もありません。

彼は教会が存続するための戦後の枠組みを否定する人です。
聖霊派教会は、この指導者に対してはっきりと「否(いな)」と言うことが必要です。

        

3.教会員の人権を侵害しない

①マインド・コントロールを用いない

a.信仰の従順とマインド・コントロールは全く違う

どこが違うかというと自発的に行われるかどうかという点が異なる点です。
マインド・コントロールの場合も表向きは自発的であることを装っていますが、実際は信者に拒否する自由はありません。
「従うのが嫌なら教会から出て行ってもらって結構です」と言うのですが、「教会を出て行くと永遠に滅びますよ」と脅していますから、教会員は結局従わざるを得ないのです。

b.信仰の従順は神に対してなされるもの

マインド・コントロールは「神に対して」と言いつつ、実際は教会の牧師に従うことを強制するものです。

これは聖書的な教会の姿とは全く相いれないことです。

○もし私たちが使徒の働きにあるような聖霊の御業を願うのなら、私たちも行いが聖書的であることが求められます。

②什一(じゅういち)献金を強制しない

何かと議論を呼ぶ什一献金ですが、そこには多くの勘違いがあるように思います。

ある人は律法は十字架によって成就したのだから、什一献金も廃止されたといいます。
しかし聖書を見ると、律法が与えられる以前から什一献金が行われていたのを見ることができます。
ですから十字架によって律法が成就しても、什一献金が廃止されたわけではないのが明らかです。

もう片方の人々は今も什一献金は有効であると教えますが、そこには多くの問題があります。

彼らは「什一献金をしないのは泥棒と同じ」と言って、信者を脅かします。
什一献金は律法ではないと言いつつ、什一献金をさも律法であるかのように人々に教えます。
ここに彼らの欺瞞があります。

彼らが什一献金を本当に律法ではないと思っているかどうかを確かめる方法があります。
それは什一献金を教会にではなく、それ以外のNPO団体に捧げることにすると言ったときの彼らの反応を見ればすぐに彼らの本心がわかります。

③奉仕を強要しない

当たり前のことですが、奉仕はやりたい人がやれば良いことです。
それを色々な理屈を加えて、奉仕をせざるを得ないようにするのは間違ったことです。
人間的な理屈が先行するとき、そこにあるのは人造宗教でしかありません。
真の神の信仰は、人々が救われた喜びが湧き上がってくるのを忍耐をもって待つものです。
人間的な理屈を先行させるとき、そこにあるのはトラブルと疲労困憊(こんぱい)でしかありません。
しかし真の神の信仰に従うとき、調和と喜びとリラックスが心を支配するようになります。

もう一度私たちは聖書に忠実な信仰に立ち返ることが必要です。

◎平安と祝福を祈っています。

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