ペンテコステ運動を特徴づける主張に「異言を伴う聖霊のバプテスマ」があります。
今日はその異言について考えてみたいと思います。
目次
1.異言は聖霊のバプテスマを受けたことの天来の印であるという教え
ありのパパが福音派神学からペンテコステ神学にどうしても移れなかった最も大きな理由が以下の教えでした。
他の主張や説明にはみな納得がいったのですが、これだけは駄目でした。
理由は二つありました。
一つ目はペンテコステ派が言うように異言が印であると言うなら、そのように明記している聖書の教えが必要ですが、聖書のどこを探しても、そのように期待することが出来る箇所はあっても、期待するように命じている箇所はありませんでした。
二つ目は論理的に考えて、聖霊のバプテスマに印が用意されているのなら、救いの恵みに対しても印が用意されていると考えるべきですが、救いの恵みを確証する印はありません。
救いの恵みは聖霊のバプテスマより重要であり、聖霊のバプテスマを受けていなくても天国にいけますが、救いの恵みをいただいていないことには天国に入ることが出来ません。
ですので聖霊のバプテスマに印があるのなら、これよりもっと重要な救いの恵みにも印があると考えるのが論理的であると言えます。
このことについてペンテコステ派は明確に答えていません。
この一点でペンテコステ派の主張は聖書に忠実でないと判断しました。
2.なぜありのパパはペンテコステ神学を聖書的な神学であると受け入れたか?
①異言について聖書はどう言っているか?
聖書は異言の存在を明確に認めています。
福音派も認めています。
なぜなら聖書を誤りのない神の言葉と信じる限り、異言を認めないわけにはいかないからです。
しかし運用面で慎重であるようにと言います。
例えが適切でないかもしれませんが、民主主義を求める国民に対して、国会の開設や選挙を約束はするがいつまで経っても約束を実行しようとしない政府のようなものです。
要するに空手形なのです。
教会員の中で異言を語る人はほとんどおりませんし、いたとしても公にしません。
なぜでしょうか?批判が怖いからです。
白い目で見られ、その教会にいられなくなることを恐れるのです。
それでありのパパは考えを変えました。
これは異言が聖霊のバプテスマの印であるかどうかが第一の問題ではなく、まず異言を認めることが第一の問題であると考えたのです。
②異言が聖霊のバプテスマの印なのかどうかという問題
この問題には二つの側面があります。
一つは印として与えられることを期待できるかということです。
使徒の働きの中で、聖霊のバプテスマが与えられている場面のすべてで、異言が伴っているか、目に見える形で聖霊のバプテスマが与えられたことが明記されております。
ですから信仰運動として、異言が伴うことを期待するようにとの主張には合理的妥当性があります。
では二つ目の、印として与えられることを期待するようにとの命令は聖書にあるでしょうか?
残念ながら聖書のどこを探してもそのような命令はありません。
結論としてはこうなります。
印として与えられたと考えることのできる十分な証拠があるが、それにもかかわらず聖書は異言が印として与えられているとは言っていない。
印としての役割はあるかもしれないが、それは後付けの説明である。
③聖霊のバプテスマが与えられるとき、異言も必ず伴うとの主張はどうか?
使徒の働きの、聖霊のバプテスマが与えられたどのケースでも異言が伴っていると考えることが出来ることから、異言は聖霊のバプテスマに必ず伴うと考えるのが妥当であると思います。
3.ありのパパの理解はどうなっているか?
①なぜ聖霊のバプテスマが与えられるときに異言で祈る賜物を与えられるのか?
神との交わりにおいて異言の祈りでなくては決して満たすことの出来ない心のすきまがあることを認識しました。
次に、世界中で様々な宗教の中に『異言』が存在することを知りました。
その異言の出所は唯一の神であるとは限らないこと。
ある時は明確に悪霊であると特定できるケースもあったこと。
クリスチャンでさえも、神からではない『異言』を受けることがあり得、また実際にそのようなケースがあること。
聖霊のバプテスマの目的はクリスチャンをして御霊で満たすことです。
満たすとは内側を一杯にするということですから、その時クリスチャンの内側には神様しかおられないわけです。
このような状態で異言が与えられるなら、それは神から来たのだと信じることが出来ます。
こう考えると、神様がなぜ聖霊のバプテスマをお与えになられるときに異言をも同時にお与えになられるのか、その理由を理解することが出来ました。
即ち神様は、ご自分の子供たちであるクリスチャンを危険から守るため、御霊で一杯になっている一番安全なときに祈りの賜物である異言の賜物をくださるのです。
これでもうありのパパがペンテコステ神学を受け入れない理由は何一つなくなりました。
それで運動開始後わずか百年でプロテスタント最大の教派となったペンテコステ運動に身を投じたわけです。
②確信を持って歩むことが出来るようになった
様々な教えの風に吹きまわされなくなりました。
それは聖書をそのまま信じることが出来るようになったからです。
これは神学が必要なくなったとか、そういうことを言っているのではありません。誤解なさいませんように。
◎感謝を主にお捧げいたしますとともに、多くの愛する兄弟姉妹が、この異言で祈る賜物を用いて神様との暖かい交わりの中に入っていかれますようにお祈りしています。
ありのパパさん、こんにちは。
異言については、私も昔から関心があるのですが、納得がいかない点もいくつかあり、他の人が異言を語ることを否定はしませんが、自分で語ることはありませんし、また、語れるようになりたいとも思っていないのです。
正直なことを言うと、実は、ずっと以前に、私は「異言」を語ったことがあるのです。
しかし、私はそれがどうしても、聖霊による聖書的な異言であるとは思えなかったのです。
それは具体的には、次のような体験です。
昔、クリスチャンの友人のお母さんが脳梗塞で倒れて重態となりました。
友人は藁にもすがる思いで、カリスマ派の主催する「癒しの集会」に出席し、私も同行しました。
その集会で、友人のお母さんのために、恵みの座に出て、祈ってもらったのですが、司会の牧師先生に「あなたも、この場で聖霊のバプテスマを受けなさい」と勧められ、その場で聖霊を祈り求めたのです。
ここまでは良いのですが、そのやり方が私には納得いきませんでした。
牧師は「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」と声を出して祈り続けなさい」と言いました。
それで、私は一生懸命「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ・・・」と声を出して祈りました。
当然のことながら、同じ言葉の繰り返しなので、舌がもつれてきます。
「ハレルヤ、ハレルヤ」が「ハエユヤ、ハエユヤ、ハユヤ、ハユヤ」みたいになり、私はその都度、意識して「ハレルヤ、ハレルヤ」と言い直していたのです。
なぜなら「ハレルヤ」は「主に栄光あれ」というとても大切な言葉だからです。それを、舌のもつれで「ハユヤ」になったら、言葉の意味がなくなってしまい、単なる呪文になってしまいます。
ところが、一生懸命に「ハレルヤ」を繰り返す私に対して、牧師は「舌がもつれても、それを直そうとせずに、もつれたまま続けなさい」と言うのです。
それで、そのようにしますと、当然のことながら「ハレルヤ、ハエユヤ、ハユヤ」から、次第にわけの分からない言葉の連続になってきます。
それを聞いた牧師は私に対して「おめでとう、これであなたも聖霊のバプテスマを受けましたね」と「祝福」して下さったのですが、正直言って私は、「えっ、これが異言なの? 」っていう感じでした。
これは、単なる舌のもつれを利用した「テクニック」によるものじゃないか、と思ったわけです。
「ああ、これが異言の正体か。正体見たり枯れ尾花」という感じです。
その後、2~3のペンテコステ派の教会に行ったのですが、そこでも、異言を語るためには「ハレルヤ、ハレルヤ」の連続のテクニックを教授されたので、このやり方は、特別におかしなやり方ではなくて、ペンテコステ派やカリスマ派では一般的なものなのだという印象を持ちました。
ありのパパさんも、初めて異言を語ったときは、こんなやり方で導かれたのですか? それとも、もっと別の形で語るようになったのでしょうか?
もしよろしければ、この私の体験についてコメントしていただければ嬉しいです。
ヒラぴゃんさん、おはようございます。
コメントを一読させていただいたのみの状態で返信しております。
ヒラぴゃんさんは本当に真実な方ですね。
あまりの真実さに、私は泣きそうになりました。
それはそれとしてヒラぴゃんさんの御質問は大変センシティブな問題です。
ですのでお返事は来週一杯ということでお願いいたします。
(ヒラぴゃんさんは福音派の宝物ではないかと思った、考えが足りないペンテコステ派の信者より。)
ありのパパさん、こんにちは。
早速の書き込み、ありがとうございます。
私は、パパさんが言われるような「真実」な人間では決してありません。
かなり疑り深くて、相手の悪いところばかりが目について、非難してしまう罪深い人間です。
ですから、異言についても素直に信じることができないのでしょうね(笑)
ともあれ、お返事はゆっくりで結構ですので、パパさんのご負担にならないようにお願いします。
ありのぱぱさまこんにちは
興味深くこの記事を
読ませて頂きました。
他教派から ペンテコステに 頭を 変えることは聖書解釈を、もう一度、いろいろ 考え直さなければならない 大変な ご苦労があったのですね
わたしは はなから ペンテコステしてましたから日本語と異言は 母国語と 神様語の 違いだけで
なぜ その ことで 教派関で 揉めたり 論争に なるのか 不思議に思いましたね
リタベネット師の 朝の9時を 読んだ時 やはり ある方々に とっては 使徒行伝的な 聖霊の バプテスマは 受け入れ 難いことなのだなあ ということを知りました
それも わかるような 気がするのです 異言 神癒 悪霊の追い出し などは 明らかに 非日常的なことですし そこには 霊的な傲慢さや 高ぶりも 発生しますから 警戒される かたが おられても 当然の ことと思います。
しかし、わたしは日本の教会で この 非日常的と おもえる 聖霊さまの 働きが きわめて 当たり前な 日常に 変えられるようにと 願っています 。
岡田さん、おはようございます。
生粋のペンテコステ派の立場からのコメントをありがとうございます。
①私は以前はホーリネス派の教会に所属していたのですが、教えられることと、聖書に書かれていることのかい離に悩むようになりました。
結論としては、聖書は「キリスト者の完全」を教えていないということを確信しました。
②その過程でペンテコステ神学が最も聖書的な神学であるとの確信を強めましたが、いくつかの点で非聖書的部分があることに気づきました。
その問題をどのように整理したのかが、このテーマの土台となっています。
③「自分が所属する教派の神学」や「聖書解釈」よりも、聖書そのものが優先されなければ、聖書解釈が少しずつ少しずつ変更された場合に、セクト的キリスト教への道をまっしぐらということになります。
これを防ぐ道は、どんなものよりも聖書を優先させること以外にはないと考えます。
ヒラぴゃんさん、こんばんは。
異言を人為的に語るように指導することについての、私の考えをまとめました。
4月19日と20日の二日に渡ってアップいたします。
よろしければお読みくださり、コメントをお願いいたします。
ありのパパさん。こんばんは。
お手数をおかけして申し訳ありません。
それでは楽しみにしています。
コメントは、2回分を読ませていただいてから投稿したいと思います。