聖書が教える最大の戒めは互いに愛し合うこと。これが人生の目的!

私たちが生まれてきたのには目的があります。
それは互いに愛し合うためです。
ではどうしたらそうなれるのでしょうか?

1.人格的成熟のない信仰者は無用の存在

イエスは葉ばかり茂って実がちっともなっていないイチジクの木を呪われました。
いったい葉っぱは何を指しているのでしょうか?

ここでイエスが言わんとしていることは「実がなっていないなら無意味である」ということです。

実(み)とは何を指しているのでしょうか?
御霊の実、人格的成熟、働きの実(結実)などを指しているのでしょう。

そうすると御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制ですから、これらの性質が信仰を持っていながら人格にやどっていない状態が「葉が茂ってはいるが、実がなっていない木」であるということが出来ます。

では信仰者に実がなるような教会形成とはどのようなものでしょうか?

神が願っておられるような信仰者になることが神の意志です。
では神の意志とは何でしょうか?

最もはっきり示されている御心は『自分自身を愛するように隣人を愛する』ことです。
すべての信仰者がこのようになれば教会の目的は達成されたということが出来ます。

2.互いに愛し合うとはどういうことか?

行いの伴わない信仰は死んだ信仰ですから、どうしても実践が必要です。
では何をしたら実践していることになるのでしょうか?

それは「人の話を聴く」ということに典型的に現されています。
牧師は説教するだけでなく信者の話を聞かなければなりませんし、教会学校教師は聖書のお話をするだけでなく生徒のお話を聞く人でなければなりません。

家庭では夫は妻の話にじっくりと耳を傾けることが必要ですし、お母さんは子供の話に根気強くつきあわなければなりません。
間違っても「だからあなたは何が言いたいの?もう、まどろっこしいんだから」などとは言ってはいけません。

○教会でスモールグループを作り、言いっぱなし・聞きっぱなし・他言無用のルールのもと、人の話を黙って聞く訓練をするなら大きな益をもたらすでしょう。

3.信仰者を助けるための神のプレゼント

「自分自身をありのままに受け入れるのでさえ難しいのに、人様を受け入れるなど奇跡的に難しい。まして人の話を黙って聞くなどとんでもありません」と言われる正直な方もおられます。
まさしくその通りです。
しかし神はそんな私たちに助けとなる手段を備えておられます。

a.救いの確信

神が私を確かに救っていてくださるという確信は自分自身が神に受け入れられているという確信を与えます。
誰が自分自身を受け入れてくれなくても神様だけは自分自身を受け入れてくださるという確信が自己受容の基盤となります。

b.今日一日だけ

自分自身を受け入れることも、隣人を受け入れることも、これはやってみるとエネルギーのいることであると思い知ります。
確かに自力では出来ません。

神は信仰者に聖霊の力を与え、ご自身の力に満たしてくださいます。
力に満たしてくださると言っても、たった一日分だけですが(笑)。
次の日にはその日一日分をまた与えてくださいます。
そうやって私たちは「今日一日を生きる」ということを学んでいきます。

c.御霊の言い難き嘆き

何を祈ればよいかわからない私たちに代わって聖霊が嘆きをもって祈ってくださいます。
この祈りによって心の深いところにある自覚していない心の傷も癒されていきます。
ただしこれは短期間に起きることではなく、何年も時には何十年にもわたる神の御業であることに留意する必要があります。

漠然と教会生活を送るのではなく明確に神に意志をわきまえ、その神の意志だけを知り、それを実践する力だけを求める生涯でありたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. めぐみ より:

    こんばんは。
    昨日メールをさせていただいたものです。

    お電話しようと思ったのですが勇気が無くてできませんでした(泣)

    私の教会のスモールグープでは、リーダーに話したことは全て牧師夫人へ報告することになっていますので、リーダーに話す=牧師夫人に話している・・・と言うつもりで話しています。
    これは、理由があって、リーダーが信者さんの重荷を全て負わなくてもいいように、報告するほうがリーダーだけがその信者さんの問題を抱え込まなくてもよい・・・という考え方から来ています。

    この考え方は正しいとずっと思っていましたが、こちらのブログを読んで少し疑問もわいてきています。

    そして、時々、アドバイスももらえますが、時として責められているような気持がしてとても落ち込んでしまいます。

    たとえば、私だけ呼ばれて、もっと聖書をよんでお祈りしたほうがよい・・・とか
    主人に甘えているのではないか・・・(主人のほうが聖書に詳しいので)とか
    あなたの信仰にかかっている・・・信仰の真剣みが足りない・・・とか

    ほんとにいろんなことを言われてきました。

    そのたびに反省しましたが、かなり落ち込みました。でもその後復活すると言う事を繰り返してきました。

    ありのパパさんは、言いっぱなし・聞きっぱなし・他言無用のルールがよいとおっしゃっていますが、それだとその方の問題がなかなか解決しないということもあるのではないでしょうか?

    しかしそのほうが気が楽だし、リーダーもその方の問題を解決しなければ!という気負いもなくていいのかな~と思ってしまいました。

    どうかお考えをお聞かせくださいm(__)m

    • arinopapa より:

      めぐみさん、こんばんは。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      めぐみさんが属されるペンテコステ教会では熱心に小集団活動をやっておられるのですね。
      ご質問に対する私なりの回答を近日中にブログの記事としてアップさせていただきます。
      しばらくお待ちください。

      これからもよろしくお願いします。
      またコメントしてください。お待ちしています。

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