中途半端な赦しは赦しではなく、完全な赦しだけが本物です。
しかし相手のしたことを許すのと相手の存在を赦すのは似ているようで全然ちがうことです。
目次
1.7度までは赦してやる生き方と無条件に赦す生き方と
ペテロは誰かに迷惑を掛けられて怒り心頭に発したとき、それを隠してイエスに相談したことがありました。
『主イエス様。誰かが私に対してひどいことをしたとき、何度まで赦すべきでしょうか?七度赦せば十分でしょうか?』[マタイ18:21]
七度の七は完全数であり、これだけ赦せば十分だと考えたのでしょう。
しかしイエスはペテロがぶっ飛ぶようなお答えをされました。
『七度までなどとは言いません。七度を七十倍するまで赦しなさい』
「七度を七十倍するまで」とは無条件に赦しなさいという意味です。
もしペテロが七度まで赦せば十分と考えているなら、誰かがペテロに罪を犯したときペテロは心の中で「一回、二回、三回」と数えるでしょう。
そして七回まできたときペテロの堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)は切れます。
しかしこれは少しも相手を赦していない生き方です。
なぜなら心の中で「いいか、良く聞けよ。七度までは大目に見てやるが、その次からは赦さないからな!」と言っているのです。
このように言われて誰が喜ぶでしょうか?
感謝する人は誰もおりません。
2.相手のやったことを許すのと、相手の存在を赦すのはちがう
このような話を聞いていると心が苦しくなるという方がおられます。
それはカルト教会などで人権を侵害された人々です。
しかし聖書が言わんとしていることは、その人のしたことを許せということではないのです。
そうではなく、その人の存在を赦すということです。
ある人はこれを「その人を神に委ねる」と言いました。
もしその人がなした不法行為を無制限に許すようなことがあれば、許した本人の心の傷はいつまでも癒されることがないでしょう。
しかしその人自身を赦す(神に委ねる)なら、赦した本人の心の傷の癒しは促進されます。
3.建前で物を言わず、初めから本音で物を言う
ペテロはどのように対処すれば良かったのでしょうか?
ありのパパがペテロであったとすれば次のように言います。
「イエス様。私は人に罪を犯され、はらわたが煮えくり返っております。あなたの教えが『赦し』であることは十分承知しておりますが決して赦すことは出来ません。こんな私はどうしたら良いでしょうか?」
「七度までは赦すべきでしょうね」などと建前でものを言わないことです。
そんなことを言うからイエス様に「七度を七十倍」などと逆襲されるのです。
建前でものを言うとイエス様はその人の建前を崩そうとされます。
なぜなら建前で生きている自分を気づかせようとなさるからです。
そうしてから実際はどうしたら良いかを教え導いてくださいます。
4.自分が見えていたら他人をさばけない
自分の罪が赦されたのがクリスチャンですが、他人の罪を赦さないクリスチャンがおられます。
「あっ、私のことを言おうとしている」と思わないで下さい。
なぜなら全てのクリスチャンがそのようなものだからです。
でもそうだからといって安心してはなりません。
聖書を読むことによって、また他のクリスチャンと本音の交わりをすることによって、何をなすべきかを知り、それを行う力を神からいただくことが大切です。
「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」[Ⅰヨハネ1:7]
5.上から目線でなく下から目線で物を言おう!
自分がどんなにひどい罪人か分かったら他の人は自分よりはマシであると思うようになります。
反対に「私はあの人ほどひどくない」と思っているようなら、あなたは全然自分のことが分かっておられないということです。
ある方が「わたしの親類が『教会に行く人は心が清い人だから私なんか行けない』と言うんです。どうしたら良いでしょうか?」と聞かれました。
それでありのパパは「絶対大丈夫!私が来てるんだから」と申し上げたところ、その所にいた人々が大爆笑しました。
どうやら人間というものは上から目線でものを言われると緊張するが、下から目線でものを言われるとリラックスするようです。
私たちお互いは人を緊張させる者でなく、人をリラックスさせる者でありたいですね。
◎平安と祝福を祈っています。