マタイの福音書15章21~28節に書かれているカナン人の女の信仰を通して本物の信仰とはどんなものかを見ます。
1.カナン人の女とイエス
カナン人(異邦人)の女性が自分の娘の精神的病を治してくださるようにイエスにお願いします。
しかしイエスは一言もその女にお答えになりませんでした。
これには理由がありました。
この当時のユダヤ人には二つの問題がありました。
一つは宗教的偏見と、もう一つは民族的優越意識でした。
宗教的偏見については彼らは自分たちの持つユダヤ教は唯一の神を信じる信仰であり、これだけが真の信仰であると堅く信じていました。
問題はその次にあります。
唯一の神を信じるなら神の戒めを命懸けで守らなければならないのですが、彼らは神の戒めの表面的な部分だけを守り、肝心の律法の根幹的な精神をなおざりにしました。
民族的優越意識については自分たちはアブラハムの子孫であり他の民族よりも優れた存在であると自負していました。
この二つの偏見が心を覆い尽くすとき人も民族も国家も妄想的な障害を抱えるようになります。
2.自分の手に負えない問題を神のところに持っていく
イエスのお弟子たちは汚れた存在とされていたカナン人の女を持て余しました。
お弟子たちはイエスに何とかしてくれと泣きつきました。
何故自分たちで何とかしようとしなかったかと言えば、それはカナン人が汚れた存在であると思い込んでいたので彼女と接触することを恐れたからです。
自分たちが嫌なことを自分たちの師匠であるイエスによく頼むものだなと、ありのパパはあきれます。
他の場面でもお弟子たちは自分たちでは対応が不可能になるとイエスに泣きついています。
イエスの弟子たちは自分以外のところに解決を求める術を知っていました。
それはイエスにです。
イエスといつも一緒にいたとしても自分以外のものに助けを求める術を知らないなら独りでいるのと変わりありません。
私たちはどうでしょうか?
イエスを神棚(かみだな)に祭(まつ)って自分の努力で何とかしようとしているということはないでしょうか?
3.心にあることが口に出る
このカナン人の女性は「ダビデの子孫としてお生まれになった救い主イエス様。私を憐れんでください」と叫びました。
この信仰告白から言って、この女性は異邦人であるということは言えても異教徒とは言えません。
このような正統的な信仰告白をした者はこの当時イスラエルでも余りいませんでした。
多くの人はイエスを預言者であるとか政治的な指導者ではないかと考えていました。
ですからイエスはこの女の叫びを聞かれたときからこの女性を注視していたと思います。
4.人からの拒絶にどのように振る舞うか?
皆さんは人から拒絶された時にどのように振る舞われますか?
ありのパパはかつては全否定で臨むことが多かったように思います。
それは自分が否定される前に相手を否定してやろうという残念な根性の持ち主だったからです。
しかしこのカナン人の女性はそうしませんでした。
けんもほろろにあしらわれても怒ったりせずイエス様に食い下がりました。
女性:「とにかく助けてください。理屈はいりません」
イエス:「神の選民である神の子供たちに与えられている祝福であるパンを選民以外の犬のような存在の異邦人に与えるのは良くないことです」
イエスの痛烈な一撃にノックアウトされるかと思われた女性ですが『なにくそド根性信仰』を発揮します。
女性:「そりゃそうや。でもね食卓からこぼれ落ちたパン屑ぐらいはもらっても罰はあたらないんじゃないですか!」
イエス:「なんという大胆な信仰か。あなたの望むようになれ。」
その時、彼女の娘の病気は治りました。
彼女は自分の望むものを手に入れたのです。
5.イエスの弟子たちの内面的変化
この一連のやりとりから学んだ人たちがいます。
それはイエスの弟子たちです。
イエスの弟子たちはなお宗教的偏見と民族的優越意識を持っていました。
しかし異邦人であるカナン人の女性がイエスから望むものをいただいたのを見てどのように考えたでしょうか?
彼ら自身の中にある偏見が音を立てて崩れて行ったのではないでしょうか。
それが後の初代教会を形成する際のペテロにおけるブレイクスルーにつながって行ったのではないかと推測します。
私たちはイエスに冷たくあしらわれたように感じるときどのように振る舞っているでしょうか?
その振る舞いによってイエスから自分の願うものを受けとれるかどうかが決まります。
心したいものです。
◎平安と祝福を祈っています。