多くの方は無力を認めることを諦めることと間違って捉えておられます。
真に無力を認めるとはどういうことかを考えます。
1.「わかったつもり」と「わかった」は違う
①「こうあらねばならない」と「こうありたい」
たとえば「酒を控えなければならないのは分かっているんだけどねぇ~」という方がよくおられます。
しかしここには二重の間違いが潜んでいます。
一つは本当に分かったら深酒はやむということです。
人という存在は私たちが考えている以上に正直な存在です。
本音のところで「これはいけない」と思ったらその行為はやみます。
自分ではやめようと思っているにもかかわらず何故やまないかと言えば本当はやめようと思っていないからです。
「こうありたい」というのと「こうあらねばならない」というのは違います。
私たちは普段の生活ではこの建前と本音をあまり区別していません。
いちいち考えていたら面倒くさいというのもありますし、中には自分自身の中に「建前さん」と「本音さん」という二人が住んでいるのを知らない方もおられます。
②本音が建前に抑圧されている場合
自分の本音に気づいていない場合があります。
本当はそのようには思っていないということを気づいていないのです。
本音の自分は「浴びるほど酒を飲んでも良い」と考えているにもかかわらず、建前の自分は「健康のために飲酒は程々にしなければならない」と考えています。
通常このような場合は本音は押しつぶされ建前だけが意識の前面に出てくるものです。
それで自分は本当に酒はほどほどにしなければならないと思っていると天才的な誤解をします。
このからくりに気づかない限り、前に進むことができません。
「無力を認める」とは12ステッププログラムの一番目のステップですが、案外多くの人が0番目のステップで躓いているのではないでしょうか。
0番目のステップとは本音のところでは「これさえ得られるなら後はどうなってもかまわない」と思っている自分に気づくことです。
この隠された本音(抑圧された本音)に気づくことが無力を認めるための前提条件となります。
ではどうしたらこの抑圧された本音に気づくことができるでしょうか?
それは気づけるまで気づくことができるように祈ることです。
そうしたら神の力が働いて気づくことができます。
2.「諦(あきら)める」のと「無力を認める」の違い
①諦めるとは回復するための希望を捨てること
たとえばお子さんが登校拒否になったとします。
そのような場合カウンセラーは「お子さんのありのままを受け入れてください」と助言することが多いです。
この言葉を間違って受け止めるお母さんがおられます。
確かにお母さんにとって[学校に行くように言わない]ことはあきらめ以外の何物でもないと思うお気持ちもわかります。
しかしそうではなく学校に再び行けるようになるために[当面は学校に行くように言わない]というのが本当のところなのです。
第一、学校に行くのをあきらめたとしたら何とかしようとする訳はありませんし、また諦めようとしても諦めきれるものではありません。
②無力を認めるとは事実を認めることであり回復への第一歩
無力を認めるとは「子供が学校に行くように自分の力ではできない」ことを認めることです。
今までは何とか子供を学校に行かせようと出来る限りのことをしてきました。
しかし効果はなく事態はますます悪くなっていくように見えます。
それでいったん手を離します。
手を離すとは子供をコントロールしようとするのを放棄することです。
③自分の無力を認めたら次は自分以外の力に頼る
自分以外の存在なら何でも良いのです。
コントロールとは結局支配するということですが、この支配を手放すと事態は必ず好転し始めます。
本当に無力を認めているかどうかのリトマス試験紙は「相手や環境を支配しようとしていないか」で明確に分かります。
自分の力でコントロールしようとする心の働きがやめば神の力が流れ込むようになります。
3.無力を認めるとは転機的な決断であるとともに継続的な心の状態
①ある日どこかで自分の無力を認めただけでは不十分
お母さんが自分の娘は醜いと思っているのが娘に投影して娘の鼻が豚の鼻になってしまったというディズニー映画がありました。
お母さんが娘のありのままが素晴らしいということに気づいたとき、娘の鼻が豚鼻から人間の鼻に変わったという結末でした。
傑作なのはお母さんが最後に「人間の鼻になったことだし、せっかくだから整形して鼻をもっと高くしたらどうかしら?」と言ったことです。
これは笑い話のような話ですが案外同じことを私たちはやっていないでしょうか?
キリスト者にしても自分の力では救われることが出来ないからこそキリストを信じたはずなのに、気がついてみると立派な信仰者になろうとして悪戦苦闘していないでしょうか?
②無力を認めるとは日々新たにされる経験
ある方が「自分は無力を認めているつもりになっていたが実はそうではなかった」と言われました。
これは無力を認める経験が日々深まっていることの印です。
ここで気をつけなければならないのは決して今までの無力を認める経験を打ち捨ててはならないということです。
なぜなら無力を認めることは一生続く経験だからです。
一生続くものですから途切れさせてはなりません。
途切れるとは今までのものは偽物で、今のものが本物という考えです。
そうではなく同じ経験が日々深化しているのだと受け取るのが健全な受け取り方です。
③無力を認めるとは万能感を手放すとこと
無力を認めるというと何か悟りを開いた仙人にでもなったかのような錯覚を持ちがちです。
しかし日々に無力を認めるとは日々に自分が無能力者であることを認めることです。
これは実に情けないことでもあります。
支配権を手放し、無力を告白し、神に信頼していくとき、神の力と奇跡が生活を支配しているのを気づくようになります。
その結果として私たちが得るものは幸福と安らぎと満ち足りた心の感情です。


◎回復と平安を祈っています。