人が共依存症になったり、アルコール依存症などの嗜癖に陥る原因は何でしょうか?
それは性格上の欠点からくる行動パターンが真の原因です。
詳しくご説明します。
1.内面が空虚だと人を支配したくなる
①使命に生きる人は他人を支配しない
ある時、森の木が王を求めました。
オリーブの木のところに行って王になってくださいと頼むとオリーブの木は「神と人を祝福するために使われる油を作るのが私の仕事です。それをやめて他の木の上にそそり立って何になるのでしょう?」と言って断りました。
次にイチジクの木に頼むとイチジクの木は「甘い実をならせるのが私の仕事です。それをやめて他の木の上にそそり立って何になるのでしょうか?」と答えました。
ぶどうの木も同じように「神と人を喜ばすための美味しいぶどう酒を作り出すのが私の仕事です。それを止めて他の木にそそり立ってそれが何になるでしょう?」
最後にいばらの木に頼むと、いばらの木はこう答えました。「よろしい。あなたがたの王になってあげよう。そのための条件は私のそばに来て身を避けることです。さもないと森の木全体を焼き尽くすことになります」[士師記9:8~15]
②不足感を感じる人は他人を支配する
オリーブの木もイチジクの木もぶどうの木も自分に満足していました。
満足しているとは不足感を感じていないということです。
不足感を感じていないとは空虚感を感じていないということです。
これらの木に共通するのはありのままで良いと自分のことを捉えているということです。
他の何かにならなくても今のままの状態で十分感謝であるということです。
それに比べていばらの木は何かを生みだすということがありません。
かえって近づくものを傷つけてしまいます。
③律法主義とガンバリズムの正体
いばらの木が象徴しているのは何でしょうか?
それは律法主義です。
「王になってやっても良い。そのための条件は私のそばに来ること。そうしなければ森全体を焼き尽くす」
この文章には「束縛」と「呪い」が表現されています。
律法主義は律法を守ることによって救いに到達しようとする人々を束縛し、律法を守りきれない人の人生を焼き尽くすという呪いをもたらします。
律法主義の別名である二元論も同様に「やれば出来る。頑張るんだ!」とガンバリズムに束縛し、「もし出来なかったらあなたは生きていたらいけない」とガンバリズムに生きる人の人生に呪いをもたらします。
2.共依存や嗜癖に陥る本当の理由
自分の内面が空虚であると人は他者を支配することを求めます。
これが劣等感が強い人ほど他人を支配したがる傾向が強いことの理由でもあります。
人は空虚感を満たそうとしますが、結局満たそうとしたものに支配されることになります。
酒を飲みすぎると依存症になると分かっていても飲み続けるのはアルコールによってもたらされるものを拒むことが出来ないからです。
それは利己主義・わがまま・配慮の足りなさから来る寂しさや拒絶感を忘れさせてくれるというものです。
自分がなぜ飲み続けるのかという原因に気づかない限り、アルコール依存症から真に回復したということはできません。
3.命の水の川が流れ出るようになるためには?
自分の性格的な欠点を正確に知ることが必要です。
今まで心の隙間を満たそうとして満たしてはならないもので満たそうとしてきました。
その結果、私たちは自分の人生がどうにもならなくなりました。
ですから私たちが変わろうとするなら、成熟した人格の持ち主へと変貌を遂げようとするなら、自分自身の短所は何かを正確に知っていなければなりません。
性格的な欠点とは自分の人生を傷つけるのに十分な誤った行動パターンのことです。
ある人は電話を自分から切ることができません。
そのことによって自分の生活に不都合を生じさせているのですが、問題の原因が自分にあるとは金輪際思っていません。
かえって人の事情を察しないで電話をかけてくる人に問題があると思い込んでいます。
このように性格的欠点というものは自分では中々気づくことが出来ないものです。
これを気づくためには本当のことを優しく言ってくれる友人に聞いてみるか、12ステッププログラムの棚卸(たなおろし)をやってみるなどの方法があります。
世界に一つだけ依存しても依存症にならないものがあります。
それが人となってこの地上に来てくださった神の御子イエス・キリストです。
この御方に全面的に依存しても依存症の症状は出てきません。
(教会に依存するなら教会依存症になり、牧師に依存するなら牧師依存症になります)
それはなぜでしょうか?
それは十字架に掛かられた御子イエス・キリストを私たちの心の隙間にはめ込む時、心の奥底から命の水の川が流れ出てくるようになるからです。
イエスにのみ依存して他の何ものにも依存しない自立した人生を生きていきたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。