イエスの宣教活動のほとんどは人々の肉体的病気と精神的病を癒すことに費やされました。
なぜイエスは癒しの働きを重視されたのかを考えます。
1.非常な情熱をもって人々の病を癒やされたイエス
イエスご自身は「全ての町々を巡回され、会堂で教え、福音を宣教し、あらゆる病気を癒されました」[マタイ9:35]
聖書の当該箇所を見ると「あらゆる病気」とか「あらゆる患い」とか「全ての町々」など、完全を現す単語が使われています。
余程イエス様は根(こん)をつめて活動なされたのだと思います。
これにはイエスの強い意志を感じます。
私たちは「癒されても感謝、癒されなくても感謝」と簡単に言うところがあります。
しかしイエス様は何としても病気の人々をいやそうとする強い意志をもっておられました。
もちろん主権は神様にありますから私たちは癒しを神に願うことはできますが、癒しを神に強制することはできません。
しかし私たちがイエスの熱いお心を感じることなく、冷たい心で「癒されても癒されなくてもどっちでもいい」などと言うことが無いようにしたいものです。
2.かわいそうに思えるかどうかがカギ
イエスは群衆をご覧になり、かわいそうに思われました。
イエスの強迫的とも思える癒しの活動の原因は人々をかわいそうに思う心でした。
①私たちは自分のことをかわいそうに思っているだろうか?
ありのパパが韓国人教会に通っていたとき、そこの教会の韓国人の長老さんがお祈りになるとき「父なる神様、私たちをかわいそうに思ってください」といつも泣きながら祈っておられました。
そうすると、その祈りを聞いている人々も「アボジ~(お父ちゃんという意)」と言いながら泣いているのです。
②自分をかわいそうに思うのでなければ隣人をかわいそうに思えない
韓国人クリスチャンの祈りに強く感動したありのパパは自分も集会で代表祈祷をするとき「私たちをかわいそうに思ってください」と祈るようになりました。
ある時、教会の青年がやってきて話をしました。
彼は「僕は自分のことをかわいそうだと思っていないし思えない」と言うのです。
ありのパパは心の中で「それがあなたの問題だよ」と思いましたが、言ってもまだ分かる段階ではないと思い黙っていました。
これを読んでおられるあなたはイエスが思っておられるように自分のことをかわいそうだと思っておられるでしょうか?
それとも「私のどこがかわいそうなのか?言ってみよ!」と憤慨されるでしょうか?
③イエスはご自分と同じスピリットを持った者を多く必要とされている
癒しを商売の道具にしている人々がおります。
これらの人は人々をかわいそうに思っていないのではないでしょうか?
もしかわいそうに思っていたら無料で(献金を取らずに)癒しの祈りをしてあげることでしょう。
イエスは『収穫は多いが、働き人は少ない』と言われました。
この場合の働き人とは強欲な大教会請負人ではなく、人々をかわいそうに思って癒しの働きに専心する働き人を指しています。
3.癒しの聖書的理解
イエスは宣教活動の最中に十二弟子を任命なさいました。
①癒しの業はイエスだけのものではない
この任命の目的は「悪霊を追い出し(精神的病を癒し)、あらゆる肉体的病を癒すために特別な権能を彼らに与える」ためでした。
これは癒しの働きをイエス様一代で終わらせることなく、後に続くリーダーたちに癒しの権能を引き継がせるためでした。
②癒しの働きをさせるために十二使徒が任命された意味
初めに十二使徒を選び、その使徒の働きの一つとして癒しがあったのではありません。
そうではなく癒しの働きを行わせるために彼らを任命し特別な権能をお与えになられたのです。[マタイ10:1]
それ位、人々を癒す働きは大切なものなのです。
しかし、このイエスの意図は教会に引き継がれることはなく、教会は癒しの業をないがしろにしました。
③癒しの業は個人の業ではなく教会の業
現在でも癒しの伝道者と呼ばれる人たちは存在しますが、彼らは癒しを自分の賜物として捉えています。
しかし聖書によるなら癒しの権能は個人に与えられたものではなく、教会に与えられたものです。
癒しの賜物を与えられた人が教会というキリストの御体の一部として癒しの業を行うのです。
これがイエスの意図されたことでした。
私たちはイエスのご命令に従い、収穫の主が働き人を送ってくださるように祈り求めたいと思います。
◎平安と祝福を祈っています。