アダルトチルドレンの回復を妨げる五つの誤解を明らかにする!

親から受けた虐待が成人した後もなぜ子供に大きな影響を与えるかと言いますと、それは受けた虐待に対して間違った思い込みをしているからです。
そこでどんな間違った思い込みがあるかを見ます。

①「その虐待は自分が原因で引き起こされた」という誤解

子供が親から虐待を受けたとき、ほとんどの子供は「自分が悪かったから、このような目にあった」と思い込みます。
教会の信徒が牧師から信仰の虐待を受ける場合も同様に「自分にも悪いところがあった」と考えやすいです。

悲しいことに、その思い込みこそが虐待からくる影響を止めることが出来ない最大の原因になっているのです。
周りの者も間違った思い込みを持っていますので「あなたにも反省すべき点があったのじゃない?」などと全く的外れなことを言います。

②「私はあの時、それを止めなかった」という誤解

止めようとすれば止めることが出来たというのは美しい誤解に過ぎません。
子供時代はそのように考えなければ生き延びることが出来なかったので無意識のうちにそのように考えたのです。

しかし成人してからもそのように考えるなら、今度はその考えが私たちを責めるようになります。
「止めようとしたら止めることが出来たのに、なぜ止めなかったのか?」という訳です。
しかし非力な子供にそれを止めることが出来ないのは自明の理です。
間違った思い込みから自分を解放しなければなりません。

③「実は私もそれを楽しんでいた」という誤解

家庭で行われる虐待では被害者の側面だけをもつことは稀(まれ)です。
大体のケースにおいて加害者の側面をも持つものです。
それは家庭内の誰かが父親から殴られている間は自分に暴力が及ばないので心ならずも親の暴力を黙認するためです。

父親が子供を虐待死させる事件が起きると、世間は「母親は何をしていたのか?」と当たり前のように言います。
しかし真実は自分への暴力を防ぎきれない母親がどうして子供への暴力を防ぐことが出来ようかというところにあったりします(勿論、夫婦で共謀して子供を虐待するケースもあります)。

④「私は必要な助けを求めなかった」という誤解

事件が起きると多くの人は「なぜこうなるまで黙っていたのか?」と言います。
この指摘はある面では正しいのですが当事者には当てはまらない指摘です。
なぜなら助けを求めることが出来るほど知恵が付いていなかったからです。
また虐待というものは助けを求めることが出来ない者を狙い撃ちして行われるものなのです。
ですから「助けを求めようとしなかったことは当たり前のことであり、自分を責めなくても良い」と自分自身を赦す必要があります。

⑤「神は私を助けてくれなかったし、守ってもくれなかった」という誤解

多くの人がこのことで神を恨んでいます。
それを教会の人に言っても受け止めてくれず、命のない形式的な反応しか帰ってこないので失望します。
このブログにもそのような不満をぶつける方が時々おられます。

問題は二つあります。
一つは「自分が神に守っていただけなかったのは自分に価値がないからだ」という間違った思い込みです。
この間違った思い込みを持つ人は必然的に低いセルフイメージに悩み、低いセルフイメージが不道徳な行動に走らせたり、反社会的な行動に至らせることもあります。

もう一つの思い込みは「神が私と一緒にいてくださったのなら、なぜ私を助けなかったのか?」という疑問です。
このような思い込みを持つ人々はイエスがなぜ従順に十字架に付かれたのかという一点を見落としています。
イエスもまた虐待を受けた私たちと同じように黙って十字架の試練を耐えてくださいました。
頭だけの神の愛でなく、心で神の愛を体験するとき、私たちは必ず「この御方が私と共にいてくださるなら私はそれで十分です」と告白するようになります。

私たちは間違った思い込みから解放されて、信仰生涯という馳せ場を走り抜きたいものです。

◎回復と平安を祈っています。

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