イエスの教えの字面(じづら)だけを取り上げて人々に適用するとき、それは暴力にもなり得ます。
そこでイエスが「裁いてはならない」と言われた教えの真意を考えます。
①人を裁くのは傲慢だから
それは「傲慢な心をもって人を裁いてはならない」と教えておられるということです。
自分のことは棚に上げて「あなたはこうなるべき。このように振る舞うべき」と自分の基準を人に押しつけ、人がその基準に従わないと、その人のことを悪く思うということは普通にあることです。
しかしクリスチャンの交わりの中でこのようなことがあってはなりません。
なぜならクリスチャンはこうあるべきという基準に自力ではどうやっても到達できないことを認めた人々だからです。
そのような人々が再び律法主義に戻っていくなら、そのような人々の為のなだめの供え物は残されていません。
②自分の考えは絶対ではない
人は自分のイメージに合わないものが目の前に現れると拒否する傾向があります。
人は誰でも自分のイメージに合うものを探し求めます。
アイドルと言われる若者たちはその時代の人々が良しとする最大公約数的な姿形を持っている者が選ばれます。
ハンフリー・ボガードが格好良いと思われた時代がありましたが今では「おじさんみたい」と言われます。
アーノルド・シュワルツネッガーが格好良いと言われた時代がありましたが今では「きもい」と言われます。
このように自分が持っている基準は絶対的なものだという思い込みがありますが、客観的に見るならそんなものは妄想にしか過ぎません。
➂ありのままは福音か、それとも偽りか?
永遠に変わらない聖書の言葉はこう言います。
『あなたがたが人を裁くその裁きで、あなたがた自身が神から裁かれるようになります』[マタイ7:2]
気をつけなければならないことは、人を裁く人に限って「私は人を裁いてなどいない。ただその人のことを心配しているだけだ」j思っていることです。
このような心配を余計なお世話と言います。
神のご命令は余計なお世話をすることではなく、その人々を裁かないでありのままに受け入れていくことです。
カルト教会に属している人々のブログに良く書かれていることに「人々をありのままに受け入れるなどという『砂糖まぶしの福音』は偽りの教えである」というのがあります。
これは彼らの本音を良く現しており、彼らの信仰の正体がどのようなものであるかを明らかにしております。
彼らは依然として「ここまで出来たら合格、出来なかったら不合格」という律法主義の中に留まっているのです。
④赦すことを強要する人々
カルト被害者に向かって「いつまでそんなことを言っているのか。赦しなさい」と言われることがあります。
カルト教会などで心に深い傷を受けたために赦そうとしても赦すことができない人々がおります。
心に深い傷を負っている人に赦すことを強要すると二次被害ともいうべき新たな傷を与えることになります。
このようなことを平気でする人には赦しを強要しているという自覚がありません。
善意で正しいことを言っているつもりで神の御前で罪を犯しているのです。
⑤赦しは強要されるものではない
赦しは被害を受けた人々が癒されていく段階に従って徐々になされていくものです。
それを外野が無責任に分かったようなことを言うとき、癒しのプロセスがかえって阻害されることになります。
ですから周りの者たちが心がけるべきことは、ある基準を押しつけることではなく、ありのままを受け入れていくことです。
⑥神のご計画を待ち望む
「今すぐ赦さなければならない」と教える人は、自分自身が「今すぐ赦すのでなければ、私はあなたを裁く」と言っているようなものです。
「そんなことをいつまで覚えているの。早く忘れなさい」と言う人々は、実は神の主権的なお働きを忍耐して待ち望むことが出来ない人々です。
神様はご自分が一番良いと思った時期に、ご自身の御業をなされます。
それは人には測りがたい神のご計画であるのです。
ですから私たちクリスチャンは信仰の忍耐をもって、神の御業が行われるのを待ち望まなければなりません。
「赦しなさい」という命令が愛から出ているなら、それを聞いた人は違和感をもたないでしょう。
しかし「あなたは赦さなければならない。さもないと私はあなたを裁く」と心の底で思いつつ「赦しなさい」と言われれば、誰だって違和感を覚えるし、反発を感じるものです。
そんなことは当たり前のことです。
もし私たちが神の御業がなされるのを信仰の忍耐をもって待ち望むなら必ず神の奇蹟が行われるようになります。
◎平安と祝福を祈っています。