聖書が教える姦淫・復讐・敵を愛するという教えを正しく理解しよう!

ある人が「情欲を抱いて女を見るだけで罪であるというなら仕方ないよね。私たちは罪人だもん!」と言いました。
人間にはこのように自分に都合よく聖書の教えを解釈し、自分の欲望を正当化するという面があります。
そこで皆さんとご一緒に欲求の取り扱い方を考えます。

        

1.姦淫について

聖書の正しい理解

①性依存症

『誰でも異性を見て、心に情欲(みだらな性的空想)を抱くなら、既にその人は姦淫の罪を犯したのと同じです』[マタイ05:27-48]

これはどういう意味でしょうか?
ある人々が言うように過度に禁欲的で抑圧的な不健全な教えなのでしょうか?
そうではありません。
却って性的罪から守られようと願う全ての人々が必ず守らなければならない教えです。

②強迫観念と渇望現象

ありのパパは「初めの誘惑を退ける」という教えに接したとき、この聖書個所を真に理解できたように思いました。

「初めの誘惑を退ける」とはどういうことかと言いますと、

a.私たちには2回目3回目の誘惑(渇望現象)を退ける力は与えられていない。

b.しかし初めの誘惑(強迫観念)を退ける力は神から与えられている。

c.だからもし私たちが初めの誘惑を退け続けるなら、私たちは罪に勝利することができるということです。

これはアルコール依存症者の自助グループであるAAで言われている教えです。

③強迫観念が教えるウソを見破る

「心の中で情欲を抱きながら異性を見る」とは、初めの誘惑を受け入れてしまうということです。

それをしてしまった者は第二第三の誘惑に抗する力は残っていませんから罪に陥ってしまうということになります。
これを指してイエスは『誰でも異性をみて、心に情欲(みだらな性的空想)を抱くなら、既にその人は姦淫の罪を犯したのと同じです』と言われたのです。

        

2.復讐について

①聖書は報復を推奨していない

旧約聖書の教えは右の頬(ほお)を打った者に対する報復は右の頬を打つことで止めるべきであり、左の頬まで打ってはならないというものでした。
これを当時の人たちは誤って解釈し報復を推奨する教えとして受け取っていました。

そこでイエスは旧約聖書の教えの真意を明らかにされたのですが、イエスはそこに止まらないで旧約の成就としての全うされた新しい教えを述べられました。

②聖書の教えとアメリカの戦争政策

この聖書の教えをアメリカが行った戦争政策に当てはめてみると興味深いです。
朝鮮戦争は現在では北朝鮮の金日成が仕掛けた戦争であることが明らかになっています。
北朝鮮軍は不法にも不意打ちを喰らわし、釜山まで韓国軍を追い詰めました。
(これは日本軍がアメリカ軍に行った真珠湾不意打ち攻撃と本質において同じことです)

これは国家の生存権を守るための大義のある戦争でした。
しかしアメリカはこの戦争に勝利したことによって共産主義との戦いという誤った戦略を持つようになります。

その結果ベトナム戦争を繰り広げることになります。
しかし朝鮮戦争とベトナム戦争とではアメリカが担った役割は正反対のものでした。

朝鮮戦争ではアメリカは解放者であり、抵抗する人々のパートナーでしたが、ベトナム戦争では腐敗した傀儡政権の後ろ楯となり、侵略者として振る舞いベトナム国民を敵に回しました。

同様にアフガン戦争ではテロとの戦いを掲げてイスラム諸国を含めた全世界の支持を獲得することに成功しましたが、これによってアメリカは何時でもどんな場合でもテロとの戦いは正当化されるという天才的な誤解を持ってしまいました。
続いて行われたイラク戦争ではイギリスとドイツとオーストラリアと我が国を除いて、ほぼ全ての国から反対されましたが無謀な戦争政策を強行しました。

③旧約聖書の精神は今も有効

右の頬を打たれた者は報復として相手の右の頬を打つところまでにしなければならないという旧約聖書の教えは今もなお有効な聖書の教えです。

        

3.敵を愛することについて

イエスは復讐の範囲を限定させることに止まらず、『右の頬を打つ者には左の頬も向けてやりなさい』と教えられました。

これは非現実的な教えでしょうか?
いいえ、そうではありません。
そうでないばかりか最も現実的な教えなのです。

太平洋戦争を仕掛けたあげくに徹底的な敗北を経験した我が国ですが、敵国のアメリカが我が国に示したものはこの「敵を愛する愛」でした。

ありのパパが小学生のときアメリカ軍が粉ミルクをくれました。
その粉ミルクがとてもおいしかったのを覚えています。
幼心に「なぜ戦争に勝った国が負けた国の国民に慈悲を示すのだろうか?これは彼らの宗教であるキリスト教と関係があるのだろうか?」と思いました。
これがありのパパがキリスト信仰に接近する第一ステップとなりました。

聖書の教えを聖書が言っている意味において理解するということは簡単なことではありません。
しかし私たちが「聖書は聖書によって理解する」という原則を守るならそれは可能です。
的外れな人生を送らないように心したいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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