カルト教会の被害者の側に立って発言を続ける牧師のところに、ある方が中傷とも思われるようなコメントを書き込みました。
その内容はまさしく日本の福音派教会が教会成長運動の波に飲み込まれてしまい、それまでの単純・素朴の信仰を打ち捨ててしまったことを良く現しているものでした。
そこで今日は皆さんとご一緒に日本のペンテコステ派の教団に属する牧師と思われる方が残したコメントから偽物と本物の違いを考えます。
目次
1.「A/Gは救霊の情熱に燃えた聖霊教団です。批判教団ではありません」と、このコメント者は書きました。
①なぜこの人はカルト批判に反発するのか?
それはご自分が同じ穴の狢(むじな)だからです。
ご自分が批判されていることと同じことをやっているから、いつかは自分が批判される番が来るのでないかと恐れ、その恐れのためにいても立ってもおれなくなり、みっともないコメントを書きなぐったのです。
②聖霊の働きは私たちを狂信者にすることではなく、自分自身と隣人の救いを全うさせるためのもの
イエスは単なる雇われた羊飼いと、羊を真に愛する羊飼いを対比させました。
羊が害されそうになったとき逃げないで命がけで羊を守るのが本当の羊飼いであると言われました。
この羊飼いのたとえ話は牧師に対して言われているのです。
カルト教会の被害者救済の働きが単なる「他人様への批判」にしか見えないのであれば、この方は信仰の根幹の部分に致命的な欠陥を抱えていると言わなければなりません。
2.「あなたはご自分の両親さえ救いに導かれていないのに他人様の批判に熱中し」と、このコメント者は書きました。
神様はクリスチャンに宣教の使命を与えられました。
「宣べ伝える人がいなくて、誰が信じることが出来るでしょうか」と聖書にある通りです。
クリスチャンの役割は救いの御言葉を宣べ伝えることです。
宣べ伝えられた御言葉を用いて人々を認罪に導かれるのは聖霊なる神の働きです。
しかし、この方は人々の救いそのものがクリスチャンの責任であると考えておられるようです。
このコメント者は神の主権を侵害し、自分を神の位置に置いておられるのです。
「聖霊によるのでなければ誰も『イエスは主である』と告白できない」
3.「長年牧師をしてきて実績もなく、主に申し訳ないと思わないのか」とこのコメント者は書きました。
①パウロは「幾人かでも救われるために」と言った
このコメント者にとっての実績とは大きな会堂を建て、多くの人々を集めることを指しているのだと思います。
聖書を学ぶ者にとって明らかであるのは、初代教会の時代に何万人もの信徒を有していたのはエルサレム教会只一つであり、あとの教会は家庭集会に毛が生えた程度の「家の教会」であったということです。
②神が命じておられるのは使命に忠実であること
使命に忠実であるとは「結果主義」とは違うことです。
結果主義とは結果オーライということであり、目的のためには手段を選ばない生き方です。
しかし神の命令はすべてをご覧になっておられる神のみ前で良心が責められることなく、人々の前で牧師としての働きを全うすることです。
主が願われることは「自分自身を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する」ことです。
教会形成をこの世の商売と同じように考えてはなりません。
私たちは主の命令に従って教会の建設に励むことが必要です。
(このカルト被害者支援の牧師は亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。)
◎平安と祝福を祈っています。
ごくごく普通に考えるなら、こういう考え方になると、思います。私の話を、取り上げてくださって恐縮しております。
http://blogs.yahoo.co.jp/johncruz644/17569850.html
Abeさん、こんにちは。
コメントをしてくださり、感謝をいたします。
ペンテコステ派の中にある、このような間違った信仰理解を放置していてはならないと思い、文章を書きました。
これからもよろしくお願いします。
(コメントされた文章が違っておりましたので、移動させました。ご了承ください。)