悔い改めの実とは何でしょうか?
ありのパパは初め、実というのだから御霊の実を指しているのではないかと理解していました。
しかし聖書の当該個所を良く読むとそうではないようです。
悔い改めの実とは何かについて考えます。
『もし来るべき裁きを逃れたいのなら、まず悔い改めにふさわしい実を結ぶことだ』[マタイ3:8](現代訳聖書)
1.悔い改めの実と御霊の実のちがい
①御霊の実
御霊の実を結ばないと裁きから逃れることが出来ないとは聖書のどこにも書かれてありません。
却って聖書は価なしに信じる者は誰でも救われると言っています。
この無条件に救ってくださった神の愛に長く止まり続けるとき、私たち信仰者の内側に神の愛を基盤とする新しい人格が形成されてきます。
これが御霊の実です。
②悔い改めの実
悔い改めの実は実を結ばないと裁きから逃れることが出来ないと聖書は言っています。
当該個所の前の部分にはパリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来たと書かれてあります。
バプテスマのヨハネはこの光景を見て「ちょっと待て!お前たちはどんな目的があってバプテスマを受けに来たのか?」と問いたい気持ちになったようです。
パリサイ人やサドカイ人の本質的な特徴は自力救済です。
救い主などは初めからお呼びでないのです。
ではなぜバプテスマを受けにきたのかという問題になりますが、これは現代でもあることではないでしょうか。
余りよく考えもせず「皆が受けているから私も受けておこう」と考えるのは良くあることです。
③悔い改めの実とは何か?
悔い改めの実とは、
a.自分の力では救われることが出来ないとことを認める。
b.しかし神様にならこんな自分であってもお救いになることが出来ると信じる。
c.自分の意志と生き方を神の配慮(みこころ)に委ねる決心をする。
ということです。
この点から見ると確かにパリサイ人やサドカイ人は落第です。
少なくとも自分の救いに関して万能感を持ったままでは救いにあずかることは出来ません。
2.悔い改めの実は実際的である必要がある
①「悔い改める気持ちになった」では全く不十分
ルカ福音書の当該個所を見ますと、真に悔い改めた人々がバプテスマのヨハネに「それでは私たちはどうすれば良いのでしょう?」と質問しています。
聖書が教える悔い改めは単なる方向転換でもなければ、悔い改めた気持ちになることでもありません。
もしアルコール依存症者が「悔い改める気持ちになりましたが、私は弱い存在ですから酒を飲み続けざるを得ません。神の助けを仰ぎ待ち望みます」と言ったとしたらどうでしょうか?
また性依存症の浮気亭主が「心底悔い改めましたが罪深い存在ですからいつまた浮気するかもしれません。神様が助けてくださらなければなりません」と言ったとしたら皆さんは納得されるでしょうか?
このような安っぽい三文芝居のようなことが現在のキリスト教では普通に行われています。
無力を認めること、神になら救うことができると信じるのは簡単なことです。
しかしそれに続いて自分の意志と生き方を神の御心に従わせる決心をするのでなければ何の意味もありません。
②具体的である必要
バプテスマのヨハネは一般人には「余分の下着を持っている者は一つも持っていない人に分けてあげなさい」と教えました。
これは憐れみの実践を意味しています。
税金取り(取税人)には「適正な税金の取り立てを行い、決められた水準以上の取り立てを行ってはならない」と教えました。
ユダヤに駐留するローマ軍兵士には「軍人であることを利用して人を脅かしたり、詐欺を働いてはならない」と教えました。
これは職業倫理ということを教えています。
3.現代の教会に適用するとどうなるか?
「罪を犯しても仕方ない」と考えることを止めなければなりません。
霊的に恵まれても、聖書がよく分かっても、もし罪を犯しているなら何の意味もありません。
聖書通りに生きることは一見難しく思えるかもしれません。
しかし、そうではありません。
最も大切な神の教えは「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということです。
多くの罪は自分自身を愛していないことが原因になっています。
神の愛をたっぷり心に受けている人は自分を傷つけようとは考えないものです。
ですから罪を犯さないようにと頑張るのではなく、まず自分自身を愛することに身を入れることです。
この道を通ってのみ神の戒めを守ることが出来るようになります。
今日の文章は、ありのパパ自身に対しても悔い改めを迫るものでした。
ありのパパも悔い改めて再出発したいと思います。
◎平安と祝福を祈っています。