今日は皆さんとご一緒に、イエスの母マリアの夫ヨセフを見ていきます。
妻のマリアが「聖霊による受胎(じゅたい)」という神の御業のために人生が一変したように、夫のヨセフもまた人生が激変しました。
①神は人々をどんなに愛しておられたか
まだ夫婦として性生活を行っていないのにマリアのお腹は日々大きくなっていきました。
これに対してヨセフは離婚するべきかどうかの決断を迫られました。
ヨセフが難しい決断を迫られているとき、正しい決断をなすことが出来るように神が介入してくださいました。
ここには人とご一緒にお働きなさる全能の神の姿が明らかにされています。
○神は今の時代も私たちが難しい決断を迫られるときに介入してくださいます。
②ボアズとヨセフの共通点
ボアズの母のラハブは異邦人であり、しかも元売春宿の女主人という経歴から想像できるように様々な困難な道を通らなければなりませんでした。
それをそばで見ていたボアズはどんなにか心を痛めたことでしょうか。
それで境遇が似ているルツにたいして尋常ならざる親切を行いました。
異邦人で無一文のルツに自分の母親のラハブを重ね合わせたボアズはルツに親切にせざるを得ない心の衝動が合ったのだと思います。
ヨセフも弱い立場の者を放っておくことが出来ない心の持ち主でした。
ヨセフの生育歴を聖書から知ることは出来ませんが、ヨセフもまた困難な境遇にいる人に対して深い共感を示しました。
このままではさらし者になってしまうマリアに対して「何ということをしたのだ。この恥さらし!」などとは全然思わず、彼女の身の上だけを心配したのでした。
クリスチャンの中には誤った理解をしている人がいます。
それは天使が現れて事情を説明し、それでヨセフのマリアに対する怒りが解けたというのではないのです。
それだったら現代の私たちと余り変わりません。
そうではなくヨセフは初めからマリアを怒っていなかったのです。
このような人は中々いるものではありません。
それだからこそ神に選ばれたのかもしれませんが。
③神の義と神の愛
ありのパパが現代日本のクリスチャンたちを見ていると二通りの人々がいるように思えます。
一方は正しすぎる人々です。
これらの人々は道徳的に正しいという基準でもって人を一刀両断に裁きます。
牧師が髪を染めようものなら「私は受け入れることが出来ません」と平気な顔で言います。
間違っても「若者伝道のためにそうしているのかな?」などとは考えることがありません。
「幾人かでも救うために………ユダヤ人にはユダヤ人にようになり、異邦人には異邦人のようになった」と言ったパウロの言葉を思い出すこともないのです。
しかし愛があったらそんなに簡単に人を裁けないのではないでしょうか?
もう片方の人々は愛はあるのだが神が求めておられる正しさをなおざりにする人々です。
婚前交渉も婚外交渉も「仕方ない。弱さを持つ人間だもの」と真顔で言い、悔い改めを促すことさえしない人々です。
もし片方だけを満たせば良いのならこんなに簡単なことはありません。
はじめの人々は思いっきり人を裁けばいいだけの話ですし、あとの人々は人が何をやっても全部肯定すれば良いだけの話です。
しかしそれで神の御心を行っていることになるでしょうか?
④ヨセフの困難な課題-答えの出ない問題への葛藤
ヨセフの困難さはマリアへの共感と神の戒めへの従順という二つの課題をどのようにして両立させれば良いかというところにありました。
このような困難な問題にぶつかったとき、その人の本音が出てまいります。
神の御前で真実な人間とは共感と正しさという二つの命題を満たす努力を止めない人です。
天使がヨセフの夢の中に現れて現状への説き明かしを行って彼自身を納得させ、これからの行動を指し示します。
このようにしてヨセフは葛藤から解放され、神の御心を確信して人生を歩むようになります。
話が飛びますが、選挙のときは「普天間基地は国外、少なくとも県外が最低条件」と言っていたのに、いざ政権の座についてアメリカと交渉すると前言を翻して「すいませんが、県内存続でお願いします」と言った政治家がおります。
これなどは二つの要件を充たす困難さを分かっていなかった典型例であるように思います。
⑤ヨセフは即座に神に従った
「でもなぁ。色々問題あるし」とはヨセフは言いませんでした。
聖書には「ヨセフは目が覚めると、主の使いが命じられる通りにした」と書いてあるのです。
これからの人生で予想できる困難さを思えば踏み出すことに躊躇するのが当然であるのにヨセフはすぐに神に従いました。
私たちもここから大切なことを学びたいものです。
私たちが神の解決を求め続けるなら、神は私たちに聖霊の導きをもって確かに応えてくださるのです。
問題はその神の解決を受け入れる準備が私たちに出来ているかどうかにあります。
◎平安と祝福を祈っています。