盲従・隷従の意味、そして聖書が教える従順とはどんなものか?

盲従・隷従の意味は何でしょうか?
従順とはちがうのでしょうか?
真の従順とは何かを考えます。

        

①マインドコントロールのからくり

マインド・コントロールされた体験を持つ信者さんにお伺いすると、「はじめはおかしいと感じていたのだが、従うように圧力をかけられ続けているうちに、従うことに疑問を感じなくなった」ということを聞きます。

これは従うか拒否するかの選択権が無限にあるのではなく、ある限られた時間しか与えられていないものであることが分ります。

戦前のわが国も「このぐらいは仕方ないだろう」と妥協に妥協を重ねていった結果、破滅的な結果をもたらしたのですが、そのときの国民やクリスチャンの気持ちは案外平気だったようです。
戦中・戦前の状態がどんなに異常だったかを気づくのは、戦後かなり経った後のことだったと言います。

        

②強制された従順はニセモノ

カルト化した教会の牧師がよく使う決まり文句である「従いなさい」の本当の意味はどのようなものでしょうか。
私たちにとって具合が悪いのは、だまされないために金輪際(こんりんざい)従おうと思ったりしないというわけにもいかないことです。
なぜなら実社会においても、それが組織である限り、リーダーとそれに従う者が存在するからです。

また聖書にも「あなたは私(イエス)に従いなさい。」とあります。
これは「イエスにであって、人にではない」と言う主張は誤っています。
なぜならイエスは人間の形をして私たちの世界にいらっしゃったからです。
イエスに従うときは人としてのイエスに従っているのです。
もちろん「人にではなく、神に従うべきです」と聖書にありますから、どのように従うかが肝心ということになります。
ですからいつまたやってくるかもしれない試練・困難・迫害のときに備えて、真の従順と偽の従順の違いを知って置くことが大切です。

        

③イエスが命じておられるのは従順

「この世と調子を合わせてはなりません。いやむしろ神のみこころは何か。即ち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ教会への手紙12章2節)

ここには「神のみこころは何か」を求め、その上で従うべきことが明らかにされております。

        

④カルト教会牧師が信徒に命じるのは隷従

カルト化牧師が願うのは従順ではありません。
なぜなら信徒一人一人が、何がみこころかよく考えて確信したところに従って歩むようになると、自分の王国が崩れさってしまうからです。
ですから彼らが願うのは隷従です。

隷従とは奴隷がその主人に従う方法です。
キリストが父である神に従ったのが従順です。
妻が夫に従うのが従順です。

話がそれますが、愚かな夫が「聖書に妻は夫に従えとあるから、俺に従え!」という場合の「従え!」は、もう皆さんお分かりのように従順ではなく隷従ですね。
この場合、夫の退職とともに調停離婚ということになります(笑)。

賢い夫は「すまないね。僕に従ってくれないか」とお願いします。
そうすると愛情一杯の妻は「何言ってるの。私こそ、あなたの妻でいさせてもらって感謝しかないわ」と答えてくれるのです。

        

⑤良く考えないで従うのは盲従

世界中に劇場観客主義とでも言わなければならないような風潮が広がっています。
政治の世界では顕著ですが、今日はキリスト教に限ってお話しましょう。

「今日の説教は良かった」とか「今ひとつだった」とかクリスチャンが言うのを聞くことがありますが、その時の自分はあくまでも観客であって当事者ではありません。
これでは礼拝とは言えません。
礼拝とは当事者同士によって行われるものだからです。

大きな聖会や大会に出席している方々の様子を見ていると、歌手かタレントのコンサートにでも出席しているかのような雰囲気が伝わってくることがあります。
これはありのパパの杞憂(きゆう)でしょうか?

良かったとか悪かったとか、恵まれたとか奇跡を体験したとか、いい加減にしなければなりません。
もしそこで神の御言葉が語られたなら、その神の御言葉に私はどのように応答しなければならないだろうかと考えるのがクリスチャンです。

普段は何も考えないで、いざなにかあると右を見て左を見て(決して上は見ず)他の人がやっているから自分もそうしようというのが盲従です。

考えないで従う。これが戦前の教会と我が国を滅ぼしました。
そして周辺国に耐えがたい苦しみを与えました。
教会が預言者の使命を果たさなかったからです。

◎機会を活かして用いるために、みこころは何かを自分で求め、御言葉に応答するとはどういうことかを自分で考え、決断し、実践するのが真の従順です。
終わりの時代にあって、油壺の油を絶やすことがなかった、あの賢い乙女たちのようでありたいものです。

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