危ない教会の主張を吟味し、なぜその主張が出てくるのかを考えてみる

分離主義カルトの主張を一つ一つ検討します。

①「聖書原理主義」は本当か?

カルト化したキリスト教会

彼らは自分たちが非難される理由は自分たちが「聖書原理主義者」であるからと言っています。
これは本当のことでしょうか?
彼らは「原理主義」という言葉を「真に聖書に忠実な」という意味で使っています。

ありのパパに言わせれば「冗談も休み休み言ってくれ」ということになります。
一体彼らの主張のどこが聖書に忠実なのでしょう。
少しも聖書に忠実な部分はありません。
その教えのほとんどが自分の主張を権威づけるために聖書の一部分を引っ張ってきているのに過ぎません。

②彼らが「そこにある危機」を探し求める本当の理由

彼らによるとこの世の終わりはもうすぐそこまで来ているとのことです。
アメリカ経済の破綻はもう既に始まっており、イランはイスラエルに対して今年中に戦争を仕掛けるそうです。
このような彼ら特有の危機意識は今に始まったことではありません。
日本の政権に対しても同様のスタンスをとっています。
自民党政権のときも民主党政権になっても彼らが言うことは只一つです。
すなわち「このまま行くと、国は滅びる。もうどうしようもない」というものです。
(2018/07/31追記)
この記事を書いたのは2010年の8月でした。あれから8年の歳月が経とうとしていますが、アメリカ経済は破綻しておらず、イランはイスラエルに戦争を仕掛けていません。
彼らはこれをどのように言い逃れるするつもりなのでしょうか?
聖書には「預言が外れた偽預言者は殺されなければならない」と書かれてあります。
彼らが少なくとも偽預言者であることは事実のようです。

③彼らの深層心理

彼らの信仰上の主張は聖書から出ているのではなく彼らの歪んだ心から出ていると考えます。

a.被害妄想

教会が彼らを赤ん坊を扱うように「お~、よしよし」とあやしているうちは居心地よく過ごしているのですが、少しでも教会からの批判にさらされるとすぐに逆上します。
彼らは自分は受け入れられて当然であるのに、なぜ受け入れられないのだろうかと訝(いぶか)しんでいます。

しかし普通に考えればすぐに分かることですが、人間が一生のあいだ誰からも批判されることなく終わるなどというのはあり得ないことです。
しかし彼らは自分には問題は何もないと感じており、問題は自分を受け入れてくれない人々にあると思い込んでいます。

b.プライド

誰にもプライドはあります。
しかし真のプライドは神が私たち一人一人に「あなたはわたしの目に高価で尊い」と言われていることが根拠になっています。
神の愛に自分のプライドが支えられているなら、私たちのプライドは上がったり下がったりすることはありません。

しかし人の評価によって自分のプライドが支えられているなら、私たちのプライドが傷つくことは避けられません。
そして自分のプライドが傷つくのを防ぐために自分に否定的な評価をした者を攻撃するようになります。

c.拒絶されることへの恐れ

分離主義カルトのほとんどの方々がカルト化した教会の出身者です。
カルト化した教会の信徒のコントロール方法は「従わないなら拒絶する」というものです。
既に洗脳されており「この団体のほかに救いはない」と思い込んでいるメンバーにとって拒絶されることは耐えることの出来ない苦痛をもたらしますから、指導者に対して絶対服従するようになります。
脱会した後も心の傷と思考パターンが残っており、自分が拒絶されるかもしれないという恐れを感じると過剰な反応を示します。

○拒絶されることへの恐れに対しての健全な反応は「長い人生には受け入れられる時もあれば拒絶される時もある」というものです。

④他者への預言が自分に成就しているという皮肉

彼らは必死になって教会の崩壊を預言していますが、ある時この預言が既に成就していることにありのパパは気付きました。
それはなんと彼ら自身の上にこの預言が成就しているのです。
しかし彼らはそのことに決して気づくことはないでしょう。
なぜなら彼らは自省するという心の視点が全くないからです。
あるのは他者を非難する病的な攻撃性だけです。

⑤深刻な人権侵害が多発しているのは彼らに真の愛がない証明

彼らの教会のメンバーの何人かが自殺したり自殺未遂に追い込まれています。
精神に異状をきたす者も少なくありません。
彼らはそのような人々を「頭のおかしい人」と蔑(さげす)んで恥じるところがありません。
それどころか「誰にも歓迎されていないのに、なぜあの人は教会に来るのだろうか?」とまで言います。

彼らの信仰はイミテーション信仰です。
一見、聖書的であるように見せ掛けていますが、本当の信仰なら当然あるべき実がありません。
その実とは互いに愛し合うという神からの賜物です。

彼らが悔い改めて神のエクレシアに戻ってくることを願いますが、その鍵は彼ら自身が握っていることを彼ら自身が知らなければなりません。

◎平安と祝福を祈っています。