「全き愛は恐れを締め出す」とはどのような意味でしょうか?
今日は皆さんとご一緒に全き愛とは何かを考えます。
目次
1.ウェスレアン・アルミニアンの神学的理解
福音主義の立場に立つ神学には大きく分けて二つあります。
一つはカルビン神学であり、もう片方はウェスレアン・アルミニアン神学です。
ありのパパはかつてはウェスレアンでしたし、今も神学的枠組みはアルミニアンです。
神学的枠組みとは物の考え方のパターンとも言うべきものです。
ウェスレアン神学に立つ教会にはホーリネス系教会やペンテコステ教会があります。
(現在のペンテコステ運動にはウェスレアン神学の影響は余りないようです)
ホーリネス教会の中心的な強調点は「全き愛」です。
ではホーリネス系の教会では全き愛をどのように理解しているのでしょうか?
①聖霊のバプテスマによってもたらされる。
②救いの恵みとは別の第二の恵みであり、キリスト者経験の第二の転機である。
③「キリスト者の完全」の経験である。
④聖霊充満である。
⑤全き愛に満たされるとき罪の根も取り去られる。(これを全き聖潔(きよめ)と呼びます)
非常に完成度の高い理路整然とした神学的理解ですが、ありのパパは実際にこの状態になってから非常に苦しみました。
なぜなら書いてあることと現実に起こったことの間に大きな乖離(かいり)があったからです。
2.ありのパパが理解している聖書の教え
もしウェスレアンの理解が正しい聖書的理解であるなら受け入れるのは当然のことです。
しかし他にもっと正しい聖書的理解があるのなら知りたい思いました。
それで神学校を卒業した後、厳密に聖書を聖書によって解釈するということを始めました。
暫(しばら)くして分かったことは自分の持っている理解と聖書が言っていることの間には大分距離があるということでした。
現在ありのパパがどのように理解しているかと申しますと以下のようになります。
①全き愛とは恐れから解放されていること
かつてのありのパパは18節だけを読み、神学をこの聖句に投影させていました。
しかしそれを止めて前後の文脈に沿って聖書を理解していくと、全き愛とは恐れから解放されている人の心の状態であることが明らかになりました。
②全き愛は聖霊のバプテスマによってもたらされるものではない
そうすると当然のことながら、この全き愛は聖霊のバプテスマによってもたらされるものではないということになります。
既に与えられている救いの恵みを自分自身に適用することによって到達することが出来るものなのです。
③どうやって到達するのか?
17節に「私たちもこの世においてキリストのように生きているので最後の裁きのときに少しも恐れることがない」とあります。
どのような意味において「キリストのように生きている」と言われているのでしょうか?
それは「自分自身を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する」ことがキリストのように生きることであると言われているのです。
このような生き方を実践しているとき私たちは恐れから解放されていることが出来るのです。
3.全き愛を持っている者は他のクリスチャンを愛する
20節には『もし「神を愛している」と言いながら同じクリスチャンを憎んでいるなら、その人は嘘つきである』と書かれてあります。
ところで分離主義者のブログを拝見していると、ここかしこに「ニポンキリスト教は崩壊するから、そこからエクソダスするほかはない」と言われています。
この主張と20節の御言葉を突き合わせてみると皆さんは一体何を感じられるでしょうか?
ありのパパは少なくとも彼らの主張が聖書から出ていないことだけは明らかであると確信します。
彼らはこう反論するかもしれません。
「クリスチャンを憎むことと、教会を憎むことはちがうこと」
本当にそうでしょうか?
クリスチャン一人一人が属しているのが教会なのではないでしょうか。
それにもかかわらずクリスチャンと教会を分離して考えることは正しいことでしょうか?
それとも彼らのお得意の「霊と魂の切り分け」の教理を援用すればそんなことはわけのないことなのかもしれません。
私たちは全き愛を持っているでしょうか?
それとも自力で潔(きよ)められようとして悪戦苦闘しており、いまだに愛に全うされていないでしょうか。
全てのクリスチャンが今すぐに愛に全うされることが可能です。
◎平安と祝福を祈っています。
こんにちは。
はじめまして、blueと申します。
ペンテコステ派の教会に通う者です。
2カ月ほど前から教会に通うようになり、神の素晴らしさを知り、聖書の教えを面白く感じています。
けれど、教会に通う人たちや説教する方々などに、矛盾や違和感を感じて悩むこともあります。
自身で、いろいろ調べたりしていたところ、このブログを知りました。
ありのパパさんのブログは、クリスチャン初心者の私にもわかりやすく、とても勉強になりますし、ひねくれも者のACの私でも素直に受け入れられます(笑)
ありがとうございます。
これからも、いろいろ学ばせて下さい。
こんにちは、blueさん。
初めてのコメントをありがとうございます。
そうですね。牧師も人間であり、クリスチャンも欠けの多い人間に過ぎません。
もちろんペンテコステ派のクリスチャンであると言っても、スーパーマンになるわけではありません(笑)。
お互いが欠けのある者であることを認め合い、その上で互いに愛し合うのが聖書の教えです。
と言ってもそれは大変難しく、実行しがたいことです。
その実行しがたいことを少しづつ実行していくのが、人間としての回復と成長の歩みであると考えています。
これからもよろしくお願いします。
ありのパパより