「我力」とか「我が強い」と言われるものは、万能感と幼児性と自己中心によってできています。
これらをどうやってしつけていけばよいでしょうか?
詳しく見ていきましょう。
目次
1.万能感とは何か?
万能感とは、自分は何でも出来ると思い込んでいることです。
子供は不全感が強いものです。なぜなら親がいないと何もできませんから。
若者には可能性はありますが実績がありませんから、どこかに不安を抱えているものです。
老人は自分の人生を振り返ると、簡単にできると思ったことが成し遂げられなかったり、またこれは自分には無理と思っていたことが人様の助けによって成し遂げることができたりした過去がありますので、おしなべて謙遜であり自分の限界をわきまえています。
一番万能感が強い世代は中年世代であると言えましょう。
若者と違って実績があり、老人とも違って将来があります。
ですから自分は何でも出来ると考えがちです。
これは良い面もあるのですが、悪い面もあります。
たとえば自分の子供が学校に行けなくなったとき、その行けない気持ちを察し、さぞかし辛かっただろうと共感することができません。
なぜ行かないのかと叱責し、子供の心の傷を広げます。
万能感に支配されていると、他者の心に共感することは出来ない相談となります。
ですからどうしても万能感を躾けて行く必要があります。
万能感を捨てるのではありません。
そんなことは不可能ですし、結局ないふりをすることになります。
カルト化した教会のこと
カルト化した教会のクリスチャンたちもこれと同じ病理を抱えているようです。
「神は私たちを通してリバイバルを起こされる。その証拠に教会も成長している。だから間違いない」
こう思い込んでいるのです。このメカニズムは万能感そのものと言えます。
ですから傷ついた仲間の信者がいくら被害を訴えても聞く耳を持たないのです。
いいえ、多分聞くことが出来ないのだと思います。
ちょうど万能感の強い親御さんが、なぜ子供が学校に行けないのか決して理解も共感も出来ないように。
むき出しの万能感をもったままで、神の御業が現れることは決してありません。
結局こういうことになると思います。
私は何も出来ない無力な存在である。
しかし神にあって私はどんなことでも出来る。
これをお芝居でなく、また本当は分かっていないのに分かったつもりになるのでもなく、身に付けることです。
どうしたら身に付けることが出来るでしょうか?
ここが肝心なところですが、やはり手痛い失敗を経験し、失望ではなく絶望を体験し、無力を認め、神にならこんな自分の人生をどうにかすることがお出来になると信じ、自分の人生を神に委ねることを通してしか、身に付けることが出来ないのではないでしょうか。
2.幼児性とは何か?
幼児性とは人は自分に仕えて当たり前と思っていることです。
赤ん坊が泣き叫ぶと、母親が駆け寄ってきます。
そしておしめは濡れてないか、お乳が欲しいのか、確かめてくれます。
そしてそのすべてが満たされていることが分かると、笑顔いっぱいの顔で赤ん坊を抱きしめます。
このようにして幼児は自分が大切な存在であることを学び、愛され経験を積んでいきます。
この経験を幼児期に持たないと後になって様々な不具合感に悩まされることになります。
このようなわけで幼児性も悪いものではありません。
①子供っぽいとはどういうことか?
「子供っぽい」というのは体や年齢は大人にちがいないのだが、対人関係において自分の立場のみを主張することを言います。
大人になった今は今度は自分がしてもらったように人様にさせていただく番なのです。
それを自覚せず、いたずらに赤ん坊のときのように自分の願いのみを主張したら人間関係はずたずたになってしまいます。
②幼児性の現れ方には二種類ある
一つは幼い頃、幼児性が満たされなかったため、大人になった今も無意識に幼児性が満たされることを求めている場合です。
二つ目は幼い頃、幼児性が十分に満たされはしたのですが、乳離れできず、大人になった今も、自分は赤ん坊のように大切に扱われて当然だと思い込んでいる場合です。
このような人が周りにいたら、あなたならどうしますか?
ありのパパなら、ぶったたいてやります。(うそうそ。)
③幼児性をしつける
この誰にでもある幼児性をどのように躾けていったらよいでしょうか?
あなたが日常生活の中で、むっとするとき、それはあなたの中の幼児性が引き出されたときです。
「私は大切に扱われて当然である」との間違った思い込みである幼児性が傷ついたので、むっとしたのです。
そのような時、静かに自分自身に次のように語りかけるのです。
「人はみな自分のために生きているのであって、私のために生きているのではない」
すぐに完全に実行できることではありませんから、分ったふり・出来たふりをやめて、ここでも無力を認め、「そのままでいい」と言ってくださる神の御声を個人的に聴き続けるのです。
そして少しずつ大人になってまいりましょう。(お互いに(笑)。)
そして子供心が満たせるときは(そうしても大丈夫なときに限りますが)、あなたの中にある子供心を目一杯満たしてあげましょう。
3.自己中心とは何か?
自己中心とは人は自分の言うことを聞いてくれて当たり前と思い込んでいることです。
①自己中心だと相手の心が理解できない
ある牧師が新しい教会を始めようとしたところ、近くにある教会の奉仕者や牧師夫人が「あいさつがないのはどうしたことか!またなぜこんな近くで教会を始めるのか?」と怒鳴り込んできたそうです。
その牧師は「日本のキリスト教会は暴力団か!」と憤慨しておりました。
実社会で働いた経験のあるありのパパは「ごあいさつが遅れ、申し訳ありませんでした。配慮が不足したこと、お許しください」と言えばいいのにと思いました。
相手の立場にたって考えるだけでは、まだ不足しています。
相手の方が感じることを、おなじように自分も感じるものでありたいですね。
②自己中心だと相手の懐(ふところ)に飛び込めない
ありのパパがインターンのとき、教会の奉仕者が住み込んでいる家で小火(ぼや)騒ぎがありました。
それで大家さんが怒鳴り込んできて「教会の人ならきちんと使ってくれると思って貸したのに、なんだこのざまは。すぐに出て行ってくれ!」と言われました。
火を出した奉仕者は事態の重大さに呆然とするだけで、なんら実のある対応が出来なかったようです。
そこに飛び込んできたのが教会の牧師婦人でした。
大家さんの前に土下座して「ごめんなさい。申し訳ありませんでした。教会が悪いのです。許してください」と大家さんに何時間も謝られたのでした。
はじめのうちは「いくら謝られても駄目なものは駄目。すぐに荷物をまとめて出て行ってくれ」と怒鳴るだけだった大家さんが次第に心ほぐれ「あなたも、こんな田舎に来て、挙句の果てにこんな苦労するなんて可哀そうだな」と言ってくださったのです。
何十年もたった今も、その出来事を忘れることは出来ません。
日本人である私たちでも中々土下座は出来るものではないのに、外国人であった牧師夫人が何時間も土下座して泣きながら謝る姿に、ありのパパは捨て身で相手の懐(ふところ)に飛び込むことのできる強さは一体どこから来るのだろうかと深く考えさせられたことでした。
③どうしたら自己中心から脱することが出来るか?
人は自分の言うことを聞いてくれて当たり前だと思っている間は、このような強さを身につけることが出来ないのはもちろんのことです。
ではどうしたらよいでしょうか。
第一に人々が自分に仕えるのを期待するのをやめることです。
そうすると「なんか寂しい」と言う方もおられますが、それは傲慢だからです。
いつかどこかで傲慢にさよならをしなければなりません。
第二に自分こそ神と人々に仕えるために造られた存在であることを認めるのです。
第三に仕え続け、仕え続け、そのように生き続けることです。
神様が、そのようなしなやかな強さを身につけることが出来るようにと招いておられます。
◎平安と祝福を祈っています。
ありのパパ さん、こんばんは。先日はご丁寧かつ身にあまるコメントありがとうございました。お気に入りに入れさせていただきました。今後もよろしくお願いします。
我力と「主がともにいるならばできるという信仰の力」とでは雲泥の差がありますね。私も同感です。ややもすれば自分の経験や能力だけに頼り、「自分はできる」と高慢に陥っていく、あるいは他を理解することができず、主のみ心から離れてしまい、生活にひずみが生まれてしまう・・・。
困難さや挫折を通して本当は自分がいかに小さく、無力で弱いかを知る経験は貴重です。失敗、弱さの自覚は主のゆるし、恵みの大きさ、主の愛の広さ深さを知ることにつながりますね。
「高慢は滅びに先立つ」カルト化は万能感の強さ、高慢から生まれるというありのパパ さんの説になるほどと思わされました。週の後半、弱さを自覚して、主に頼り、力をいただきながら、私も歩んでまいりたいと思います。 新年度という向こう岸に主とともに渡っていきましょう。
コルさん、今晩は。こちらこそよろしくお願いいたします。
万能感の強い中年世代とは、実は私のことでして‥‥。実にお恥ずかしいです。
まぁ、こんなことよく書けたもんだとも思いますが、自分でも後から読んで戒められておる次第です。
またコメントお待ちしています。
ありぱぱさん 今晩は、えらく、 平和で 穏やかな、ブログですね 有意義な 勉強させていただきました。 なぜ ここに来て 落ち着くのか わかりました ぼくも ペンテコステだからです 陰ながら応援 させていただきます。
それから コルさんとはいちど 吉祥寺様で お会いしたことが、ありますね お元気そうで なによりです。
岡田さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
管理人のありのパパです。
どうぞ陰ながらなどとおっしゃらずに、是非ともに考えていくことが出来ますなら幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。
こんばんは ありぱぱさん ぼくは 24年前 アッセンブリー教団の 教会で 洗礼を 受けました
そこでは すぐに 異言を伴う 聖霊の バプテスマを 受けるようにと 指導して くださいました 2か月後に 異言で祈れる ように なりました これを、否定される方々も おられる事は 存じてはおりますが、 私は この教会に導かれた ことを 本当に 神様に 感謝しています
わたしは この体験を 通し 聖書は ウソじゃないよ みことばは ほんとだよ イエス様は キミのことを よく知っているよ
神様から そんな暖かい メッセージを いただいたように 感じました。
大阪に 引っ越して JEC教団の 小さな教会に 転会 いたしました 静かで 平和な教会です
元気がない 積極性に
欠けているとも 言えますね(笑)
天国に 行くまで なにか、一つだけでも イエス様の お役に たちたい そう 思っています(^-^)
岡田さん、今晩は。
そうですか、二ヶ月ですか。ちなみに私は35年掛かりました。(笑)
いかに正しい聖書的な指導が大切かを物語っていますね。
「うちの牧師の説教は異言よりむずかしい。」という岡田さんのぶっとんだコメントを吉祥寺ブログで読んだことがあり、どんな楽しい教会に行ってらっしゃるのか興味深々だったのですよ。
仰るとおり、神様の栄光を表すお役に立たせていただきたいものです。
役に立たなくてもいいから、邪魔だけせんといて、と神様に言われるかもしれませんけど。(笑)
コメントありがとうございました。
こんばんは。ありのパパさん、岡田さん。
肩ひじはるような信仰生活でなくて、ありのままにいこう、平和で穏やかにいこうという自然体の信仰姿勢をお二人から感じていいなあって思ってます。
私の教会も平和でのんびりしています。私の教会の皆さんは教派にはあまりこだわっていません。あえていうならペンテコステです、というか聖書に基づこうとしているだけなのですが・・・・・。私も多くのクリスチャンが聖霊のバプティスマを受けたらいいなと思います。岡田さん、どう指導されたのですか?「求めなさい、そうすれば与えられます」くらいしか私は言えないのですが。よろしければ教えてください。
コルさま ありのぱぱさま こんにちは
いまから申し上げることは、ぼくの 主観なので、聖書的に見て 正しいか どうか わかりません
わたしの 聞き取り調査では 聖霊の バブテスマの受け方は ワンパターンでは ありませんでした
わたしのケースは 集会ではなく 自分の部屋で聖書を 前に 置き 天のお父さま、みことばに 約束されている 賜物を 与えてください 喜んで受け取ります そう祈り 瞑想し心臓付近に ある 暖かい 野球のボールくらいの 空気のようなものを 静かに 音声として だしました 最初は 短い 単語ですが これを 続けていくうちに 語彙が 増えてきました
いまはプライベートなときには 呼吸するのと 同じくらい 自然に 異言で 祈り 歌います
また 教団聖会で 講壇の前に行き ひざまずき手を上げ賛美しながら 按手の中で、受ける 方々を 多く見ました
日曜礼拝のあと 聖霊待望祈り会で 受ける人も見ました 牧師婦人とのカウンセリングのなかで 受けた人も ありました
知性の祈りと 同じくらい 異言の祈りも 自分には 必要であると 認識することが 大切で あると思います そして 声をだすことを 怖がらない ことが 大事だと思いました
以上のことは 非ペンテコステ派の 方からみれば 「きみ 狂ってはいませんか」と ご批判を 受けることは よくわかっています 論争は いたしません 「決して あなたに 御迷惑は おかけ致しません 愚かものの わがままを お許し下さい」 そう答えます。
ありのぱぱさま コルさま 岡田さま
皆様の暖かな雰囲気にひかれて出てきてしまいました。
どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m
ご挨拶の書き込みでした。
こんにちは。岡田さん、コルさん、「謙虚になりたい」さん。
大きな聖会などに出席していて気づくことは、出席者の顔ぶれが2・3年ごとに代わっているということです。
あの人たちはどこに行ったのだろうか?と残念に思います。
福音派教会にいたときも、「前の門から入ってきて、後ろの門から出ていく。」などと言われていました。
しかし岡田さんやコルさんのように20年・30年ものの信仰者がおられることを知り、大きな慰めを受けます。
しかも異言で祈り続けて、ウン十年と言うに至っては「ただ者ではない!」と言う感じでしょうか。(いや、お互いにお邪魔虫でしかありませんけど。)
岡田さん、聖霊のバプティスマへの導かれ方を証詞していただき感謝します。私の場合は求めてから1年後に、賛美している最中に言葉があふれてきました。コメントで30年近くと大ざっぱに申しましたが、正確には26年です。不正確ですみません。それ以来、運転しながら、歌にのせ、風呂の中で、声を出さず心の中で、ときには夢の中で、・・・日常生活の中でいたるところ、いたるときに祈るようにしています。 妻は最近、仕事が厳しくなり、否定的な思いになりそうになると異言で祈るようにしていると言っています。きっとそれぞれの祈りの生活があるのだと思います。
「異言で長期間祈るのでなければ決して満たされることのない心の隙間(すきま)というものがある」・・・なるほど、私も欠けが多く、ほんとうにこの恵みに預かれ感謝です。主なしでは、祈りなしではやっていけません。感謝!
コルさま
吉祥寺での交流こちらこそ感謝で御座います。これからも宜しくお願い申し上げます。
実は吉祥寺で一時かなり集中して書き込んでしまいましたので、あそこでは私のハンドルネームを快く思わない方もおられそうに感じまして・・・・こちらの穏やかな雰囲気をできるだけ損なわないようにハンドルネームも工夫してみました。他意はないんですよ(^^;
この時代、聖書と祈りこそが私たちの支えとなるのだと強く思わされています。
聖書の通読・精読、そして知性による祈りと異言の祈り これが大切ですねぇ。
精進しなければと痛切に思わされます。
コルさんへ
体験や 感覚を ことばで表現するのは とても 難しいことですよね‥
これが 誤解の 原因かもわかりませんね
もう昇天されましたが、わたしの最も尊敬する G牧師も コルさんとおなじく一人で 車の運転中は ずっと異言で 祈っていますよと 話しておられました
G牧師のメッセージですが
聖霊に 満たされると 人は どう変えられて いくのか
当然 栄光から栄光へと主と 同じ姿に とおっしゃっる だろうと思いましたが ちがいました 聖霊に満たされると 人は より人間らしい人に変えられていく、そういわれました
何か わかったような わからんような はなしやなあ〜 ぼくは 心の中で そお思いました
人間らしい人て どんな人だろうか、ぼく程度の頭で思い浮かぶのは 渥美清さんが 一番人間らしいと感じています…
金銭に 無欲で 女性を尊敬し 大切にしている
野垂れ死にを 覚悟している潔さ 弱いもの いじめは絶対しない 仁義を守り いつも風呂上がりのような こざっぱりしたかんじ
聖霊に満たされると 渥美清さんのような ふいんきに なるのだろうか 勝手に そんなことを 思いましたね(笑)
そういえば その先生は 500人の大教会の牧師でしたが えらそうでなく 威圧感もないし空気が軽い 渥美清的 オーラが ありました 聖霊様の 働きに関しましては まだまだ未知の部分が たくさんあります 共に学び 恵みに あずかれよう 祈ります