完璧主義は自分自身を責めます。
「なぜ完全にならないのか?」と。
初めのうちは何とか要求を満たしますが、そのうち行き詰まるようになります。
ここから解放されるための道を解説します。
①これが解決したら自分の問題はなくなると思い込む
信仰者も信仰に入ったばかりのときは「みな罪は赦された!感謝だ。これからはイエスに従って聖い人生を生きていこう」と思うものです。
しかししばらく信仰生活を送るうちに当初の興奮は醒め、罪の誘惑が戻って来たのを感じます。
信仰を持っていても誘惑に負けて罪を犯すことがあるし、これでは以前と何も変わらないと気落ちします。
そのようなときにホーリネス派の教えやペンテコステ派の教えに触れて「私が罪の誘惑に弱いのは聖霊に満たされていなかったからだ」と考え、聖霊に満たされることを熱心に求め始めます。
しばらくの求めの末、遂に聖霊に満たされることが出来ます。
そうすると「私には何の問題もない。これからは順風満帆の信仰人生だ!」と思い込みます。
しかしこれもしばらくすると興奮状態が醒め、日常生活が戻って来ます。
そうすると代わり映えのしない自分の姿を発見するのです。
ある人々はその虚しさから目をそらすために新しい興奮を求めて聖会から聖会へと巡礼の旅を行います。
もうこれ以上書く必要はないと思いますが何を求めたとしても結局同じ旅路をたどります。
②弱さや失敗や空虚感を認めない時代
聖霊に満たされても、異言の祈りをしても、私たちから弱さが無くなるわけではありません。
この肉体を持っている限り、弱点や判断の誤りや感情的な空虚感などは存在し続けます。
そんなことは当たり前のことなのですが現代に生きる人々にとっては当たり前のことではないようです。
なぜならこの時代の価値観は完全主義であり、出来たことよりも出来なかったことを問題にする価値観が支配的だからです。
時代の価値観の影響を受けたクリスチャンも自分の行いに対して完全主義的な評価をくだすことになりがちです。
それで自分が出来なかったことについて自分自身を責めるようになります。
③根拠のない万能感が問題の原因
なぜ出来なかったことを責めるかというと「出来ると思っていたのに出来なかった」からです。
なぜ出来ると考えたのかというと万能感が強いからです。
このように考えると自分を責めるのは万能感を強く持っているからということが分かります。
アルコール依存症者は「自分は酒を止めることが出来る」と考えている間は断酒することができません。
なぜなら自分の中にはそんな力はどこにもないにもかかわらず、あると錯覚しているからです。
しかし「自分は酒に対して無力であり、自分の中にはどこを探しても断酒する力はない」と認めたとき神に対する信仰が生れます。
こうなって初めて断酒することが可能になります。
これは酒の問題に限らず、どんなことであっても方程式は同じです。
根拠のない万能感を持っている限り、自分自身を責める思いから自由になることは出来ません。
神が自分を責めているように感じるのは錯覚であり、実は自分が自分自身を責めているのです。
④神は私たちを責めない
聖書には「たとい私たちの心に責められることがあったとしても、神は私たちを赦してくださる寛大な御方であって既に私たちの全てをご存じである」と書かれてあります。
何と神は恵み深いお方ではありませんか。
神様は初めから「私たちの全てのご存じである」のです。
ですから神に責められるように感じたら、そのからくりを見破って自分自身を責めるのを止めることです。
⑤万能感とセルフイメージは違う
万能感とは私たちの行いに対して言うことであり、セルフイメージとは私たちの存在に対して言われることです。
「私はただの罪人に過ぎない」と気づくことが出来たら自分自身を責める思いもなくなります。
そうしたら躊躇(ためら)うことなく神の御前に大胆に出ることができます。
願い求めることは何でも聴いていただくことができます。
そのために必要な戒めが一つだけあります。
その戒めとはイエスがありのままの私たちを受け入れてくださったように、私たちも自分自身と隣人をありのままに受け入れることです。
この戒めは私たちにとって苦痛ではなく喜びに満ちたものです。
万能感を捨て、罪人でしかない自分自身を感謝を持って受け入れたいものです。
なぜならそれが神の御前に大胆に出ることの出来る唯一の道なのですから。
◎平安と祝福を祈っています。