今から三・四十年前、「悔い改めは救いに必須のことか、それとも救われるためには、ただ信じれば良いのか」ということを真顔で議論していたことを懐かしく思い出します。
その時の議論が意味していたことは、もし悔い改めが救いに必須であるなら、救いは神の恵みによってもたらされるものではなくなってしまうのではないかということでした。
目次
①神人協働説という誤謬
ありのパパが属する神学の系統にアルミニウスという人がいますが、この人の後継者たちは「神人協働説」というのを唱えました。
これは神と人間が協力しなければ人間の救いは達成できないとする考えです。
これはどう見ても聖書の教えであるということは出来ません。
その時代の支配的神学であったカルビニズムの誤りを是正しようとして却って向こう側に行き過ぎたようでした。
②ウェスレアン・アルミニアンの穏健な神学的理解
ジョン・ウェスレー以降はカルビニズムの誤りを是正しつつ聖書的理解の範疇に納まるような穏健な神学理解が出来ていると考えます。
それはまず第一に人間は圧倒的に堕落した存在であり、救いに関して神に協力するなどということはできるはずもない。
ではカルビニズムが言う通り、神はある人を救いに選び、ある人を滅びに選び、神が不可抗的効力(要するに力ずくということ)をもって救いの業を実行されるのかというと決してそうではない。
第二に神は全ての人に先行的恩寵をお与えになり、罪について・義について人格的応答が可能となるようにしてくださっている。
これは一般的な言葉で言うと『良心』ということになります。
このような前提をもって救いについて考えるとき、悔い改めの位置づけは明確になります。
それは神がお与えになった先行的恩寵によって自らが救われなければならない罪人であることを悟り、その結果イエスを救い主と信じるわけですから、悔い改めは当然のこととして救いの前になさなければならないという理解になります。
③恵みによって悔い改めたのに功績と勘違いする
しかし困った状況がみられるようになりました。
それは恵みのゆえに悔い改めて信じたにもかかわらず、悔い改めを自分の手柄のように受け取る人々が少なからずおられるということです。
このような光景をカルビニズムの神学に立つ人々が見て「そら見たことか。やっぱり私たちが言った通りになった。やはり救われるのに悔い改めは必須の条件ではなく信仰だけが条件なのだ」と言いました。
正直に言うとこの批判は当たっていると思います。
人間は弱く、神の恵みによるものを自分の功績であると勘違いする危険が常にあることを思わせられます。
まとめると以下のようになります。
④悔い改めと信仰は別々のものではない。信仰の中に悔い改めが含まれている
悔い改めという名の律法を守ることによって救いに到達すると考えるのか、それとも神の愛が分かって喜びと感謝と申し訳なさの故に悔い改めるのか?
悔い改めが自分の功績になってしまう人々は神の愛が本当には分かっていない人々です。
なぜなら神の愛が身に沁みて分かっているなら決して悔い改めを自分の功績であるとは考えないからです。
神の愛を人格的に体験した人は誰に何を言われなくても人格的応答として信仰に入るのです。
順序を間違えはいけません。
神の愛を人格的に体験せずに頭の理解だけで信仰に入った人は下手をすると一生涯、神の愛を人格的に体験するということをしないまま終わってしまう危険があります。
ですから本当は「悔い改めて信じるべきか、それとも信じるだけで良いのか」という議論は全く的外れなのです。
⑤罪の言い表しは神の御前で行う
罪をお詫びするということをカルト教会の牧師は悪用して、牧師の前で悔い改めさせて告白の内容を後で脅しに用いるということがありました。
これは公には明らかになっていないことですが、いわゆるカルトと呼ばれる教会で副牧師・伝道師がなぜ離脱しないのかということの一つの説明にはなっています。
このような危険を冒さないためにも悔い改めは神との個人的関係の中において言い表される必要があります。
またスモールグループでの告白も絶対に口外しないという誓約が必要です。
⑥実のある悔い改めとなるために
a.我力(がりき)で善き人になろうとする努力を放棄する
b.自分が抱える問題を解決するための努力を続ける
c.その努力のうちに神に来ていただく
悔い改めは信仰に入る前に行われるものであること、人生の方向転換を意味すること、また具体的でなければならないことを学びました。
◎平安と祝福を祈っています。