「自我を十字架に付ける」という教えほどクリスチャンが誤って理解している教えはありません。
まじめなクリスチャンほど誤って理解する傾向があるように感じます。
そのような人々に対して「真剣になるのも、ほどほどにしろよ」などと言おうものなら「やっぱり不信仰者だと思っていたが思った通りだ」と裁かれるのがオチです(笑)。
そこで「自我の磔殺」について聖書は何と教えているかを見ます。
①自力・我力・無力とは何か?
「キリストの十字架は私の罪のためであった」と信じる人は、みな救われることが出来ます。
しかし救われた後も「自力によって救われる道」を選び取りたいという欲求が私たちの中にあります。
この欲求は他の領域に向かうなら素晴らしい働きをします。
たとえば「目標を立てて実現する」という類のものには効果的です。
しかしこの欲求を家庭に適用すると家族は心に傷を受けます。
なぜなら「ここまで出来たらお前は合格。出来なかったら不合格」というメッセージを送ることになるからです。
②自力・我力の終わりは失望と絶望
『私は十字架に付けられました』とは律法を守ることによって救いに到達しようとする心を十字架に付けたということです。
考えようによっては努力によって救いに到達しようとすることほど魅力的な教えはないかもしれません。
チャレンジしようとする人たちにとっては自分の中にある万能感が最高に刺激されることですし、プライドも満たされます。
またそれは自然と他者との競争ということになりますから、人と競争して打ち勝ちたいという人間の願いにも適っています。
しかし命がけで生涯掛けてチャレンジしてみて、結果は惨憺たるものであることを悟ります。
出来ることなら生涯の終わりにその虚しさを悟るのではなく、人生のどこかで悟り、恵みによって救われる道を信仰によって選び取りたいものです。
③律法主義と律法廃棄論
教会はいつでも二つの敵と戦うことになります。
一つは「努力によって救われる」という教えの改訂版である「努力によって信仰生活を送る」ことを信徒に強制する人々です。
もう一つは「救われた後の行いはどのような意味であっても重要ではない」と教える人々です。
前者は律法主義者であり、後者は律法廃棄論者です。
④救われた後の大切な行いとは?
「ありのままで良い」ということが分かった後でも自分自身をありのままに受け入れ続けるのは骨が折れることです。
ましてや隣人をありのままに受け入れるなどは至難(しなん)の業(わざ)と言われなければなりません。
私たちの目前にはやりがいのある大仕事が待ち受けています。
それは一生掛かっても十分に出来ないかもしれないほど大きな仕事です。
それが『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という神のご命令なのです。
このような大切な行いがあるにもかかわらず「救われた後の行いは重要ではない」などという寝ぼけた教えに耳を貸してはなりません。
⑤分離主義教会の人々へ
ウオッチマン・ニーの教えを奉じる人々が大切にする教えが「自我の磔殺」です。
しかしこの立場の人々の説教やブログで書かれていることを拝見すると、彼らは自分が十字架に掛かるということを自分の努力で達成しようとしています。
これは結局のところ自分の努力によって救いを達成しようとする律法主義にほかなりません。
彼の追従者たちが知っている彼の教えは彼が刑務所に入る前のものです。
ウオッチマン・ニーは何十年もの間、中国の強制収容所に収監されました。
収容所でニーに出会った人の証言によるなら、ニーはとても謙遜な人であったようです。
神だけを信頼する強い信仰心を発揮する一方で、まわりの人々に対しては優しい愛の配慮を欠かさなかったと言います。
ニーは何十年もの収容所体験の中で自らの信仰を成熟させて行ったのではないでしょうか。
ニーの信奉者たちに申し上げたいことは「誰かの教えを真に受けて思考停止に陥ってしまうのではなく、聖書と現実と自分自身の内面を照らし合わせて、自分の頭で考え、祈り、御霊なる神の導きを頂戴しなければならない」ということです。
自分を十字架に付けるとは律法によって救われようとする心を十字架に付けることです。
◎平安と祝福を祈っています。