聖書のヨハネの手紙第一には『神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます』(新改訳聖書)とあります。
クリスチャンがこの個所を読んでまず思うのは「私なんか駄目だ」ということではないでしょうか。
なぜダメだと想うのでしょうか?
それにはちゃんとした理由があります。
1.聖化を誤って理解している
現代の日本人クリスチャンたちは聖化の概念を聖書から読み取るのではなく、私たちの文化の中にある「きよさ」の概念から読み取っています。
私たちの文化における聖さとはシミも傷もない汚れが一点もない存在を意味します。
これはおもに神道の教えから来るものですが、このきよさの概念はキリスト教・聖書の赦しの概念とは真反対のものです。
また聖書の教えである聖化の概念とも似て非なるものです。
キリストが提供してくださる赦しとはありのままの姿のままで罪赦され義と認められる(正しい者とされる)ことです。
そうであるのに救いに続く聖化の段階でシミも傷もない全く聖い存在を目指すなら、それは救いの概念と抵触することになります。
聖書的な聖化の概念をクリスチャンが把握するまでは救いと聖化の間で苦しみ続けることになります。
では聖書が教える聖化とはどのようなものでしょうか?
2.本音で生きる
薄暗い中から明るい場所に急に出ると一瞬めまいがすることはないでしょうか?
これは日陰(ひかげ)から日向(ひなた)に移動するさいに、目から入ってくる光線の量が急激に増えたため脳が一時的に適応できなくなるために起こります。
これと同様にと言うと飛躍しすぎかもしれませんが、普段は建前でモノを言っていて急に何かの場面で自分の本音を言わなければならなくなったとき、人はなぜか眩(まぶ)しそうな表情をします。
神には「しかり」はどこまで行っても「しかり」であり、「否(いな)」はどこまで行っても「否」です。
これは神には建前がなく、本音しかないということを現しています。
日常生活で自分の本音を言わずに当たり障りのない建前で生きている人には神が眩しく見えます。
3.光の中を歩むときどんなことが起きるか?
『私たちは互いに交わりを保ち』と聖書にあります。
私たちが光の中を歩むとき即ち本音で生きるとき、私たちクリスチャン同士は交わりを保つことが出来るというのです。
交わりを保つとは本音の交流ということです。
日曜礼拝のあとで「お元気ですか?」「よい天気ですね」と挨拶するのは建前の交流です。
自分の心の傷、醜さ、罪の誘惑などについて自発的に述べることが出来る者同士を指して『私たちは互いに交わりを保ち』と言っているのです。
4.本音の交流があると聖化の業(わざ)が行われる
実際的な聖化とはアル中はアルコール依存症から解放され、セックス依存症者は健全な性の交わりを維持することができるようになり、DV男は暴力をふるわなくても自分の意志を現すことが出来るようになることであり、子供を虐待する母親は子供を自分の怒りの捌(は)け口にしなくなることです。
教会堂の中では聖人のように振る舞うのがクリスチャンの一般的な姿です。
それでどんな問題行動を抱えていても「そんなものは知りません」という顔をします。
これが現代キリスト教の無力の一因であるのです。
キリスト教は癒しの力そのものであるにもかかわらず人間的な敬虔の衣をかぶった宗教に変質してしまいました。
もう一度キリスト教のあるべき姿を取り戻さなければなりません。
5.他者のありのままを受け入れる
自分自身のありのままは受け入れるが、他者のありのままを受け入れるのは御免被(ごめんこうむ)るという方が時々おられます。
実を言いますと、ありのパパもそう思っている人間の一人なのです。
しかしそれは通らない話です。
『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』とはイエスご自身の命令です。
見たくない他者の醜い姿をありのままに受け入れるときに自己受容もまた進みます。
なぜなら他人を受け入れている自分を自分自身が見て「それならこんな汚い自分自身を現しても大丈夫」ということでますます本当の自分自身の姿を現すようになるからです。
絵空事の自己受容ごっこをしているうちは、このようなことは決して起こりません。
真剣に自己受容と他者受容に取り組んでいくときに自分自身を深く知ることが出来るようになります。
光の中を歩むときクリスチャン同士は本音の交流を持つことが出来、私たちは罪に勝利することが出来ます。
◎平安と祝福を祈っています。