イエスをただの同居人としないで家族とすることが深い癒しにつながる

アダルトチルドレンと思われるクリスチャンの方に良く質問されるのが「私が虐待されているときもイエスが一緒にいてくださったのなら、なぜ助けてくれなかったのですか?」ということです。

アダルトチルドレンは表面に現れたことだけを捉えて内面の真実に気づくのが大変苦手な傾向があります。
それで今日はどうしたらイエスにある神の愛に気づくことが出来るかを考えます。

        

1.イエスは私たちにとってただの同居人ではない

①「下宿屋家族」という呼び名

これは奥さんという名前の下宿の管理人がおり、夫・子供という名前の下宿人がいるということを皮肉って言った言葉です。

しかし他人が集まって一緒に暮らしても家族になることはありません。
学校の寮などに住んでいると一緒に住んだ人々とは格別に仲が良くなりますが、それでもその関係が家族同様になることはありません。

②アダルトチルドレンにとっての他人と家族

多くのアダルトチルドレンにとって「何もしてくれない家族より、何くれとなく手助けをしてくれる他人の方がよっぽどマシ」という気持ちがあるのでしょう。

アダルトチルドレンは他人と仲よくなるのは得意ですが、家族と仲よくするのは不得意であるのです。
なぜなら他人とは建前で交わることが出来、「良い人」という仮面を着けて演じることは長くやってきたので何でもないことです。
しかし家族には幼いころに苦しめられてきましたから、これから親しくなる可能性がある人に対しては子ども時代の怨念がムクムクと出て来ます。

③イエスを同居人に止めておく限り、癒しはない

イエスを同居人にとどめておく限り、信仰は重荷以外の何ものでもなく苦しいだけの代物(しろもの)です。
しかしイエスを自分の家族として迎えようとすると昔の記憶がよみがえってきて「イエスもやっぱり私を苦しめるんじゃないか?」と語り掛けてきます。
それで一生の間、誰とも、神様とも、親しい関係を築くことなく人生を終わらなければならなくなります。
もし「そんな人生はイヤ!」ということであれば、どこかで呪いの連鎖を断ち切らなければなりません。

        

2.イエスと親密な関係を築くにはどうしたら良いか?

①救われた体験を持つ

ありのパパは明確な救いの体験が与えられています。
これはそうでもしなければ信仰を持ち続けることが出来ないことをお分かりであられた神の憐れみの故であったと思います。
ありのパパにとって救いの体験は神に受け入れられたという体験そのものでした。

人に受け入れられるという体験が乏しかったありのパパには神に受け入れられる努力をするという間違った信仰の道に行く危険がありました。
それが「自分が救われていることを知る」という霊的体験によって、その危険なところを一足飛(いっそくと)びに乗り越えることが出来たのでした。

ありのパパは信仰を持って43年が経ちますが(1974年入信)、自分が神に受け入れられているのを疑ったことがありません。
そのため受け入れられるための努力をしたことがありません。
始めから神と親子関係をスタートさせることが出来たことは幸いなことでした。

②聖書を日々読み、その中でイエスと交わる

毎日の聖書通読を聖書研究として読んではなりません。
そうではなく福音書などでイエスが登場なさる場面の中にご自分を登場させるのです。
あたかもそこに自分がいるかのように思って聖書を読むとき、イエスが自分に語り掛けてくださっているのを気づくようになるでしょう。
親替えをしてイエスに親になっていただき、イエスに接していくのです。
これを「育て直し」と言います。
これを長期間にわたって行うとき、私たちは真に癒されていきます。

③本音で人々と交流する

仮面をかぶって良い人を演じている限り、私たちの内面的な成長はありません。
ただ疲れるだけであり、いつかは人生に終止符を打ちたいという思いに駆られるときがやって来るかもしれません。
そうならないためにも仮面を外し、本音の自分で人々と交流することが必要です。
誰とも本音の交流をしないなら気づきが与えられることもありません。
人々と交わる中で、腹が立ったり、傷ついたりします。
そのところが神がサーチライトを当てておられる場所なのです。
このようにして回復し成長して行くように神によって定められているのです。

イエスに恨み言を言うのを止めて、神の意志を知ろうとすることは不毛な人生から満足できる人生への転換のために大切なことです。

◎平安と祝福を祈っています。

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