福音派教会は熱心に伝道します。
それは宣教の任務は神ご自身によって教会に委ねられており、宣教しなければ誰も救いに与(あずか)ることが出来ないからです。
それがある教会で、伝道という名のもとに伝道集会とは似ても似つかない催し物を主催したということで非難の声があがっています。
そしてその教会とはどうやらセカンドチャンスを説く教会であるらしいのです。
それで今日は、万人救済主義を受け入れてしまうと伝道の概念さえ変質してしまうということを考えてみたいと思います。
1.セカンドチャンス(福音派)
①セカンドチャンスは人の死後もう一度イエスを信じるチャンスが与えられるという教え
この論の主唱者は聖書信仰の立場からカトリックの煉獄やリベラル派キリスト教の万人救済主義を否定しています。
しかしその同じ物差しでご自分が主張しておられることを測るなら、ご自分の説が一番非聖書的であることを認めざるを得ないのではないでしょうか?
②カトリックの煉獄の代わりにゲヘナが登場する
このゲヘナにおいて人々はイエスを信じるか否かのチャンスが与えられると言うのです。
この論の主唱者は「それでも全ての人がイエスを信じるとは限らない」と言います。
本当にそうでしょうか?
死後の世界において、イエスを信じるチャンスが与えられて「信じません」と言う人がいるでしょうか?
なぜこんなことを主張するかというと、このようにでも主張しないと聖書の信仰と論理矛盾を起こしてしまうからです。
聖書をどう読んだところで[救いは信仰による]という教えを否定することは出来ません。
それで苦し紛れに、このように言うことによって聖書とバランスをとったつもりになっているのかもしれません。
③この説を受け入れた教会は人々を惹きつけることが出来る人を伝道集会の講師に招く
これは一見なんでもないことのように見えますが、決してそうではありません。
死後にイエスを信じるチャンスがあると考えている人々は、救霊のためだけに伝道するということがなくなります。
伝道は教会の拡張のために行われることになります。
すなわち伝道が自己目的化します。
2.万人救済主義(リベラル派)
①万人救済主義は人々がキリストを信じるか信じないかにかかわらず、既に全員救われているという教え
ではなぜ伝道を行うのかというと、それは「あなたも既に救われている」ということを人々に知らせるために行うというのです。
なぜこのような教えが成立し得るのかというと、それは聖書を一字一句誤りのない霊感された書物であると認めないからです。
彼らは聖書の全体としての教えや主張は認めます。
しかしイエスを信じる者は救いに、そうでない者は自分が犯した罪の刈り取りを行うようになるということを認めません。
なぜなら、それは神の愛に反しているからと言うのです。
聖書・黙示録において『この書物に付け加えてもならないし、取り除いてもならない』と命じられています。
明らかに聖書に書かれている事項について、人間的な論理で弄(もてあそ)んではなりません。
②リベラル派教会で伝道集会として音楽会が開かれる
なぜ音楽を聴く集まりを開くことが伝道につながるのか、全く意味不明です。
もちろん救霊のために様々なものを用いることは良いことです。
しかしここで言いたいのは、そういうことではありません。
もう既に全ての人が救われているのに、なぜ伝道するのかということです。
もう既に救われているのに、なぜそれを知らせる必要があるのですか?
そんな必要は全然ありません。
③伝道は[イエスが私たちの罪を贖ってくださり、その身代わりのイエスを信じるなら救われること]を人々に知らせるもの
伝道は、もう既に救われていることを人々に知らせるためではなく、イエスの身代わりの死は自分のためであったと信じるなら救われるということを人々に知らせるためです。
この論を信じる人々に心から申し上げたいことは、万人救済主義を信じなくても、神の愛に矛盾せずに聖書を理解することは可能であるということです。
また、自分の考えを聖書に優先させてはなりません。
それは自分を神の上に置くことです。
聖書の教えに自分の考えを従わせなければなりません。
しかし聖書を正しく釈義するなら、それは少しも神の愛に矛盾しないということを知るようになります。
3.煉獄(カトリック)
①煉獄
煉獄とは救われるために十分な良い行いを積むことが出来なかった信徒が、天国と地獄の中間地帯の煉獄で善行を積むことによって天国に行けるようになるという教えです。
この教えの特徴は煉獄に行ける人をカトリック教徒に限っていることです。
ですからセカンドチャンスや万人救済主義と違って、誰でも救われるという教えではありません。
しかし中世の時代は全員がカトリック教徒と言っていいほどでしたので、この教えも実質は全ての人の救いを教えていると言って良いと思います。
②カトリック教会は人が救われるために信仰と行いの二つが必要であると教える
よくもまぁ、こんな聖書と違うことを教えられたもんだという気がしますが、教会を聖書より上位に置く彼らには少しも矛盾を感じないのかもしれません。
ただ私たちプロテスタントのクリスチャンから見ると「だからやっぱりカトリックは奇怪(おか)しい」となるわけですが(笑)。
③救われる条件に行いを挙げている限り、人が救われるということはあり得ない
なぜなら人間はどうしようもない罪人であり、いくら信仰を持っているからと言っても、救いに届くような善行を積むことなどは到底できない相談だからです。
そこで必然的に信徒を慰め納得させるために、煉獄の教えが登場すると言うわけです。
◎「信じることによって救われる」という教えからの逸脱が、教会が行う宣教を変質させる真の原因であることを見てきました。
教会が教会であり続けるために聖書に忠実な信仰を持ち続けることが生命的に重要です。
ありのパパさん。久しぶりです。
ブログを読ませていただきました。
ひろきです。
万人救済説や煉獄、セカンドチャンス論を批判されているようですが、これらは全部、聖書から導かれたものです。
聖書の解釈しだいではいかのようにも解釈できるので、どれが正しいかは聖書だけからはわからないように思えます。
聖書自体はカトリックが編纂したものですから、編纂の主旨から煉獄説が正しいのでしょうか?
僕は、神様が善なる方でなおかつ全知全能な方だと思うので、(というより聖書にはっきり書いているので)、いずれは万人が救済されなければ、上記の事と矛盾するように思えます。
もし、万人が救済されないとしたら、神様が完全な善な方でないか、全知全能ではないかどちらかになってしまいます。
でもそんな事は聖書に書いていませんね。(もしそれを否定する記述が聖書にあったなら僕に教えてください。)
以上が僕が万人救済説を信じる理由ですが、これは神学の場でも結構言われている事です。
カール・バルト(結構保守的な神学者として知られます。)は、神の自由を現すために万人は救済されなければならないと述べました。
以上です。
長文失礼しました。
ひろきさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
>万人救済説や煉獄、セカンドチャンス論を批判されているようですが、これらは全部、聖書から導かれたものです。
○これらは全部、人間的な知恵から出たものです。
もし、ひろきさんが仰るように聖書から出ているというなら、引照聖句を示してください。
>聖書の解釈しだいではいかのようにも解釈できるので、どれが正しいかは聖書だけからはわからないように思えます。
○聖書は聖書によって解釈するという原則があります。
ですから決して解釈によってどのようにも取ることが出来るということはありません。
>聖書自体はカトリックが編纂したものですから、編纂の主旨から煉獄説が正しいのでしょうか?
○もしそう思っておられるなら、ひろきさんはカトリックに改宗しなければなりませんね(笑)。
>僕は、神様が善なる方でなおかつ全知全能な方だと思うので、(というより聖書にはっきり書いているので)、いずれは万人が救済されなければ、上記の事と矛盾するように思えます。
○全然矛盾しません。なぜなら神はあらかじめ誰が信じて救われ、誰が信じないで救われないかということをご存じであられますから、矛盾することはありません。
>もし、万人が救済されないとしたら、神様が完全な善な方でないか、全知全能ではないかどちらかになってしまいます。
○なぜそんな途方もない見当外れなことが言えるのでしょうか?
神の善にして、全能であることは、神の御子イエスが万民の贖いのために十字架に掛かって死んだくださったというところに遺憾なく現されております。
>でもそんな事は聖書に書いていませんね。(もしそれを否定する記述が聖書にあったなら僕に教えてください。)
○聖書全体がこのことを証しています。もし一カ所でも信じないでも救われるという個所があったら教えてください。
>カール・バルト(結構保守的な神学者として知られます。)は、神の自由を現すために万人は救済されなければならないと述べました。
○カール・バルトは新正統主義の神学者です。
どうしてそのような人を保守的だなどと、事実と全く違うことを言われるのでしょうか?
また同じ新正統主義の神学者からも、バルトの万人救済主義は批判されています。
またコメントしてください。
ありのパパさん。こんにちは。
ありパパさんが、万人救済、セカンドチャンス、煉獄の根拠となる聖書箇所についてきかれたので列挙します。
僕が見つけただけでも40箇所、恐らくは100箇所はあるでしょう。
ですので全ては書く事はできませんが、一部を書きたいと思います。
○煉獄
コリントの信徒の手紙三章13節から15節がよく挙げられます。
他にもマタイ12章32節やマタイ18章34節などが挙げられます。
この箇所はセカンドチャンスの根拠でもあります。
○万人救済
迷いでた羊のたとえ、放蕩息子のたとえ、なくした金貨のたとえがよく挙げられます。
他にもローマの手紙5章18節、ヘブライ人への手紙2章8〜9節などがあります。
何よりも大事なのは神様が全ての人が真理を知り救われる事を望んでいる事です。
神様は全知全能なので、望んでいる事は全て実現されます。
もし実現しないとすれば神様が全知全能じゃない事になってしまうのです。
○セカンドチャンスこの根拠となる聖書箇所は非常に多いです。
有名なのはペトロの手紙1の3章19節のキリストの黄泉での宣教です。他にもルツ記2章20節などたくさんの箇所が見いだせます。
セカンドチャンス論は東京神学大学の元総長の熊沢さんや大川従道さんも
ひろきさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
これからもコメントの応酬を続けたいと思います。
そうでないと、言いっぱなし・書きっぱなしというのは疲れます。
この私のコメントにも返コメしてくださいね。
詳細な反論に入る前に(笑)、お聞きしたいことがあります。
それはひろきさんはペンテコステ派教会に通っておられるということでしたので、信仰もペンテコステ信仰を持っておられると思っていたのです。
しかし書き込みの内容から判断すると、そうではありませんね。
ひろきさんは、ご自分の信仰をどのように捉えておられるでしょうか。
リベラル派の新正統主義でしょうか、それとも自由主義でしょうか、それともカリスマ運動?
なぜこんなことをお聞きするかと言えば、問題の核心は聖書解釈にあるのではなく、聖書観にあるのではないかと考えるからです。
もし本当に「聖書は解釈のしようによって、どのようにでも理解できる」と思っておられるなら、聖句を挙げての詳細な検討は意味を持ちません。
なぜなら「あなたはそう考えるかもしれないが、私はそう考えない」と言われてしまえば、水掛け論に終わるからです。
聖書の書かれた字句通りの意味が、本来の意味であるという前提がなければ、議論は成立しません。
言っている意味はお分かりですね。
返コメを期待しています。
ありのパパさん。コメントありがとうございます。
まず、自分の聖書観について話したいと思います。
自分は聖書は全て霊感によって書かれたと信じています。
ですが、全ての箇所を字句通りに解釈するべきだとは思っていません。
字句通りに解釈する事によってかえって聖書の本来の主旨から外れてしまうからです。
それから、自分の通っている教会についてなのですが、万人救済の事や自分の恋人の事をめぐって、行き違いがありしばらく通えていません。
自分の理性に照らしあわせると、神様が全知全能で、善なる方ならば、どうしても万人が救済されなければ論理的につじつまが合わないという結論になったのです。
そこで意見のくい違いがありました。
相手の方は人間の自由意志を強調しました。
しかし、人間の自由意志など神様の全知全能性に比べればとるにたらないものではないでしょうか?
もっというと全ての人はいずれかの時点で救われるよう予定されていると考える事はできないでしょうか。
自分は聖書と神学書を読みこみ自分なりの救済を考えました。
神様は全知全能の方です。
人間に自由意志を与えてなおかつそれをもって全ての人をクリスチャンにする事が可能なのです。
ですので自分は今のノンクリスチャンの方もセカンドチャンスいずれ、全員クリスチャンになって救われると信じています。
それが神様の望まれる事だからです。
ただ、セカンドチャンスの場合、信仰だけでなく火による罪の贖いが必要です。
しかし、この世において悔い改めた人はその火による苦しみを経ないで天国へ入れます。
遊園地があるとします。
この世で悔い改めた人は無料でその遊園地に入れます。
しかしセカンドチャンスで救われた人は、自分で働いてお金を稼ぎ、入園料を支払わなければなりません。
入園料はその人の罪の大きさに応じます。
ですから、死んだ後に改心すればいいという結論にはならないのです。
以上です。長文失礼しました。
ひろきさん、こんにちは。
返コメありがとうございます。
信仰には三つの側面があります。
一つは聖書を基準にして、お互いの神学的相違をすり合わせるという作業です。
二つは、しかしそれでもなお「私はこう考える」と自身の立場を固守する面です。
三つは、その信仰が神の御前で受け入れられるかどうかという命題です。
ペテロもパウロも、この三つの原則を大切にしました。
さて、この原則をひろきさんの主張に当てはめてみるとどうなるでしょうか。
①聖書は全て霊感によって書かれたことを認めるというとき、それは何を意味するかというと「書かれた字義通りの意味を受け入れる」ことを指しているのです。
聖書を解釈する最終権威は聖書自身にあり、人間の側にあるのではありません。
②自由意志の問題をひろきさんは過小評価しておられます。
自由意志こそは、神がご自身の形に似せて人を造られたというときの本質的要素です。
神が人の自由意志を無視するとき、それは神が神の形に似せて造られた人間の本質的要素を無視するということになり、それこそ自己撞着に陥ってしまいます。
③他の問題は、この聖書観をどう捉えるかということに掛かってきますので、ここでは言及いたしません。
◎これから出張に行きますので、水曜の午前中まで応答できません。
よろしくお願いします。
またコメントしてください。
コメントありがとうございます。
聖書を字句通りに解釈すると、いろいろ不都合が生じてしまいます。
例えば、進化論や地動説も誤りという事になってしまいます。
17世紀のカトリック教会はその事であやまちを犯した。
その反省からか20世紀には慎重な検討と議論を経て進化論を条件つきで認める事にしたのです。
またアウグスチヌスは科学と聖書が矛盾する時は象徴的に解釈するべきだと言っています。
次に自由意志についてですが、自由意志とは人間の側の論理です。
神様は全知全能なので、全ての人が救われるよう予定されています。
ただそれは人間の側から見れば、自由意志をもって信仰に入り救われる事となります。
人間の自由意志と予定説は全然矛盾しません。
神様は全ての人間を、その人間自由意志によってクリスチャンにする事ができます。
ですのである人がキリストを信じたとしたら、それはその人が自由意志で信じたと同時に神様とキリストから発する聖霊によって信じさせられたのです。
この事は聖書にも「神によって定められた者はみな信仰に入った」「神は信じたい者を信じさせ、かたくなにしたい者をかたくなにされる」と書いています。
ただ、人間の側から見ればそれは自由意志によって信じた
ひろきさん、こんばんは。
コメント承認と返コメが遅くなり、申し訳ありません。
○聖書を字句通りに解釈すると不都合が生じると言いながら、その実ひろきさんは聖書を字句通りに解釈しないことで、ご自身の信仰に不都合を生じさせておられます。
例えば地動説の問題にしても、聖書は天動説を主張しておりません。
カトリック教会が誤りを犯したのであって、聖書が間違っていたのではありません。
ですからこのことは私たちを何を教えているかと言うと、聖書を人間的な都合によって解釈することの危うさを私たちに教えているのです。
聖書を聖書によって解釈するという原則を守っていれば、このような間違いに陥ることはありません。
○自由意志とは人間の側の論理ではありません。
自由意志とは、神がご自身の形に似せて人を造られたというときの最大の特徴であるのです。
自由意志とは、自己決定権と人格的に応答することです。
聖書のどこにも「全ての人が救われるように予定されている」とは書かれていません。
却って「神の御心は全ての人が悔い改めに進むことです」[Ⅱペテロ3:9]
一人も滅びることを望まれないので、イエスの再臨が延ばされていると聖書には書かれています。
これはイエスの再臨があったときには、信じていない人は滅びるということでもあります。
キリスト教は、結局のところ聖書宗教です。
問題はそれを受け入れるかどうかです。
ひろきさんが、神の喜ばれる決断をなされますように。
こんにちは、ありパパさん。一つお聞かせください。
セカンド・チャンス論や万民救済論を、神学として論ずることは確かにできないです。
それらしいニュアンスの句節は確かにありますが、それで論証する事は無理でしょう。
確かに救いのチャンスは基本的にこの世に置いての事でしか言えないと思います。
救いは古今東西に於いてJXの十字架上で完成されました。
世界の人々に救いの条件は完成していると言えます。
しかしその事実を聞き信じることで、救いが有効になると解釈しています。
だから宣教が必要と理解し、私は音楽活動しながら福音を伝えております。
しかし、一度も福音を聞かずに死んだ人はどうでしょう。
多くの聖書研究者はローマ書1,2章を引用しその人の良心で救われると言いますが、それってなかなか納得できないんです。
救いの原則はJXのみです。なのにその人の良心が救い基準になるのはおかしいと思いませんか?
一度この世で福音を拒んだ人は仕方ないにしろ、福音を知らずに死んだ人についてはやはり黄泉で福音を聞けるチャンスが有っても良いのではないかと考えたいものです。
救いがないにしても何らかの神の恩寵はあろうかとも考えます。
結構、私の知っている何人かの牧師先生方もそのように考えています。
この考えはセカンド・チャンスではないです。
黄泉でのファーストチャンスになりますので誤解無いようにしてください。
神様の御心を聖書全体を通して読めばそのように信じたいものですが、ありパパさんはこの考えをどのように思いますでしょうか?
特に東日本の津波で流された多くの人で赤ちゃんや多くの子供がいましたが、福音を聞いていたかどうかわかりませんよね。
もちろん答えとしては黄泉での責任は私達には介入できないので深く考えることはナンセンスな話で、神様に委ねるしか無いのはわかってはおります。
こんばんは、adamⅢさん。
コメントをありがとうございます。
コメントされた最後の部分が、多くの人にとってタブー・クウェスチョン(質問してはいけないと感じられる)となっているのではないでしょうか?
しかし私にとってはこの疑問はタブーでも何でもなく、既に解決済みの問題です。
私が個人的に理解していることの要点は三つあります。
①多くの人は救いを論じる際に、自らを神の立場に置いて論じている。
それで「福音を一度も聞かずに死んだ人はどうなるのか?」という穿(うが)った質問が出てきます。
しかし救いとは「救われようと必死に努力したけれど、自らの努力によっては到底救いに到達し得ない」と感得(かんとく)した人々に備えられているものです。
ですから救いの問題を論じるときは「どうあがいても救いに到達できない人々に無代価で与えられた」という視点で論じることが大切であると思います。
そのような視点で救いの問題を論じるとき、たとえば「赤ん坊はどうなるのか?」という疑問は出てきようがありません。
なぜなら赤ん坊は「自らを救おうと努力した」こともなければ、「救われようと努力したけれど到底救いに到達し得ないことを悟った」こともないからです。
②神と信仰者との関係は契約の関係であるとともに、人格的信頼関係でもあります。
契約の関係とは「イエスの十字架の血潮は私の罪のために流されたと信じる人はみな救われる」という神の御言葉は法律的な性質を持っているということです。
いったん救うと仰るなら、後で気が変わったりすることなく、未来永劫その契約は有効です(人間の側でその契約を破棄しない限りにおいて)。
しかしそれだけでなく神様との関係は個人的(人格的)信頼関係でもあります。
親鸞は「御仏に救っていただけなかったとしても、私はそれで良い。なぜなら私は生涯掛けて御仏に仕えてきた。それだけで十分です。」と言いました。
仏教徒でさえ、このように言うことができるとするなら、真の神を信じるキリスト者はなおのこと「私はすべてのことを神におまかせしている。今まで私に良くしてくださった神様の審判に不服があろうはずがない」と告白することができます。
③救われるための十全な情報はすべて聖書に書かれています。
なぜなら聖書は人類が救われるために神がお与えになった書物だからです。
そのゆえに聖書に書かれていないことを推測することはできません。
人間の考えと矛盾が生じるときは、聖書の教えを優先する必要があります。
黙示録には聖書の教えに付け加えることも省くことも、絶対に許されない罪であると書かれてあります。
人が救いの問題で考え込んでしまうようなことがあった場合は、①と②を勘案することによって解決可能であると考えています。
◎如何でしょうか。これが私の現在の考えの概要です。参考になりましたら幸いです。
またコメントしてください。お待ちしています。
こんにちわ。
はじめまして。
この頃、セカンドチャンスなる言葉を聞きかなりの違和感を持ちました。
そして検索したら此方にたどり着きました。
昔聞いた「耳触りの良い言葉を聞いて信じてはいけない、牧師の言葉も聖書で吟味し確認しなければいけない」と言う宣教師の言葉が耳から離れません。
「人が何と言おうと言いなりにならず自分で確かめなければ魂をさらわれてしまう」、それは自分の責任と言う事。
チョイスするのは自分です。
そう言って導いてくれた宣教師の真摯な言葉が私の中で生きております。
此方に来て理由がわかりました。
有難うございました。
こんばんは、はっぴぃさん。
コメントをありがとうございます。
そうですね。どんな時にも『時代の風』に吹き回されることのないようにしたいものです。
またコメントしてください。お待ちしています。