セクトの意味は「分派」であり、カルトの意味は「カリスマ的指導者が絶大な影響力をもって指導している団体」です。
この記事ではセクトとカルトのちがいを明らかにし、教会がカルトに変質しないための方策を解説しています。
1.セクトとは何か?
①セクトの定義とは?
アメリカの神学校を終えて帰って来られた方にセクトについてお伺いしたことがありました。
その方は「アメリカでは、a.分派であること、b.閉鎖的であること、c攻撃性が強いことがセクトの条件とされているようです。しかし日本の人口に占めるキリスト教会の割合から言うと、日本の教会はみなセクトと見なされると思います」とお答えになり大笑いしたのを覚えています。
その時代には(約四十年前)カルトという言葉自体がなじみのないものでしたし、マインドコントロールということについても一般には理解されていませんでした。
現代におけるセクトの定義付けを考えると、
a.自分たちだけが正しく祝福されている
b.自分たちだけが真理を持っており、目が開かれている
c.自分たちだけに輝かしい未来がある
と考えているということが出来るでしょう。
②セクトの元々の出自は正統派・主流派の教会
セクト教会の出自は主流派教会に対する先鋭的な批判の故に追い出されるか、自分から分離したものです。
プロテスタント教会そのものが出自はカトリック教会であり、そこから追放された者たちの集まりでした。
プロテスタント教会の人々は初め唯一の公同の教会であるカソリックから分離させられ自分たちのアイデンティティに悩みました。
即ち、自分が何者か分からないということです。
それでプロテスタント教会は自分が何者であるかを知るために常に聖書に訪ね求めました。
宗教改革から約五百年たった今ではカトリック教会の人々は自分たちを「カトリック」と呼び、プロテスタントの人々は自分たちのことを「プロテスタント」とは呼ばず、「クリスチャン」と呼ぶようになりました。
③セクトは強い閉鎖性や攻撃性があってもマインドコントロール手法を使わない
セクトが主流派団体から分離して段々と大きくなっていくのか、それとも小さいままで終わるのかは誰も分かりません。
日本の教会は長い間セクト的位置から抜け出すために考えられる限りの方策を行ってきました。
しかしそれらは実を結ぶことなく未だに我が国の教会は人口比から言えばセクトと呼ばれても仕方ないところにいます。
2.カルトとは何か?
①構成メンバーに対してマインドコントロールを用いる
セクト的団体がカルト的団体へと変質した明確な印は構成員に対してマインドコントロールを使うことです。
異端と呼ばれるものに「エホバの証人」というのがありますが、これも初めは異端的教理を信じているに過ぎない団体でした。
しかし統治体と呼ばれる指導部の入れ替えがあったときからマインドコントロールを用いるようになりました。
最もそれが良く現れたのが聖書研究についてでした。
それまでは異端的教理を奉じていながらも比較的自由に聖書についての研究が許されていました。
しかし統治体のメンバーが変わってからは聖書そのものを読むことが禁じられ、統治体の出版物を通してしか聖書を研究することが許されなくなりました。
同時に外部に対しても芝居がかった彼らのいわゆる伝道マニュアル通りの対応をするだけであり、クリスチャンから質問を投げかけられても真っ当に答えるということはなくなりました。
②セクトが強い攻撃性を外部に向けるのに対して、カルトは内部にも向ける
セクトは「あいつらは間違っている。私たちは正しい」と力むだけですが、カルトは攻撃性を会員にも向けます。
即ち「私たちから離れると呪われる」「指導者に従わないと天罰がくだる」などです。
このような面から見ると、セクトの行き着く先がカルトであるということも出来ると思います。
③セクトに見られる閉鎖性がカルトにおいては強く隠蔽(いんぺい)されている
セクトは目に見える閉鎖性を持っていますが、カルトは外部からは風通しが良く見えます。
集会の様子をインターネットで流したり説教要旨をPDFで配布していたりします。
しかしそれは閉鎖性を巧みに隠蔽しているのに過ぎません。
外からは民主的運営がされているように見えても、いったん中に入るとおどろおどろしい封建的運営がなされいるのを知ることになります。
たとえば教会総会や役員会によらず一般会員が知らない間に重要事項が決定されたり、副牧師の解任やメンバーの除名についてまともな説明がなされません。
教会会計についても同様です。
3.セクト的団体がカルト教会に変質しないために
セクトと呼ばれる団体がカルト化しないためには何に注意することが必要でしょうか?
①「私たちは正しく、あの人たちは間違っている」という二元論的主張を放棄する
彼らの根本的誤りは努力した人は救われ、努力しなかった人は救われないという二元論を廃止するのが福音であるのに、結局気が付いて見ると「自分たちは目が開かれた存在であり、ニポンキリスト教は滅びていく運命である」という典型的な二元論に陥っていることです。
この典型的な二元論に陥っていることに気づかない限り、彼らがカルト化するのは必然だと思います。
②自分たちの未熟さを正直に認めるところからスタートする
彼らの批判は大部分が正しいものであることを認めます。
しかし彼らは批判しているのと同じ罪や欠点が自分の中にもあることを気づいていないのです。
それで自分は正しく、被害者であり、ニホンキリスト教は間違っており、加害者であると思い込んでいます。
完全に正しい教会など、この地上にはどこにも存在しません。
そんなものは初めからどこにもないのです。
弱い者同士が互いの欠点を受け入れ補い合うのが聖書的な教会です。
そこに目を塞ぎ、壮大な美辞麗句を語ってもそれは神の御前で虚しいことです。
③自分たちの教会の内部で起きていることを正直に認める
彼らは自分たちの内部で起きていることを隠蔽(いんぺい)する傾向があります。
なぜなら自分たちの教会は日本の教会からエクソダスしてきた教会であり、問題があるはずがないと考えるからです。
しかしエクソダスなどは妄想に過ぎず、彼らの教会もまた欠けの多い者同士が集まって構成される教会の一つなのです。
ですから問題が起きるなどは当然のことなのです。
しかし彼らにはそれは受け入れられないことですから、どうしても隠蔽するようになります。
そのような偽善的なあり方を捨てて、現実に起きている問題を認め、その問題を解決することに全力を尽くすことです。
そのような営みを通して教会は成長するように神によって定められているのです。
初めは小さな団体でありセクトと呼ばれているようであっても聖書の福音に忠実に従うなら必ず祝福され成長することが出来ます。
しかし聖書に書いていないことを福音であると詐称するなら、その団体は必然的にカルトへと変質していかざるを得ません。
神の御前で大言壮語することを止め、罪人でしかない自分を認めつつ光の中を歩むように願ってやみません。
◎平安と祝福を祈っています。