聖書が警告する世俗主義とは何か?キリスト教会に侵食する世俗主義

世俗主義とは信仰は心の中だけに止め、社会のことは信仰とは別のルールで対処しようとするあり方です。

聖書にも世俗主義が登場するのを皆さんはご存じでしょうか?
それはヨハネ福音書19章12節です。
「ユダヤ人の指導者たちは狂ったように叫んだ。『もしその男を釈放したら、皇帝陛下に反逆することになります。その男は自分を王だと言っているのですから』」
なぜこの発言が世俗主義になるのかを見ていきます。

1.聖書に見る世俗主義

ユダヤ人は自分たち以外の人間を蔑視していました。
それにもかかわらずローマ帝国の忠実な臣民を演じているのです。

これが神の御心に反していることはアブラハムが妻のサラを自分の妹と偽ったことを主がお怒りになったことからも明らかです。
神の御心は誰に対してもいつも同じ姿勢をとることであり、相手に合せて言うことが変わらないことです。

2.世俗主義の本質

①世俗主義は「おのが腹をおのが神とする」

結局一番自分が可愛いのです。
もちろん誰だって自分が一番可愛いのは同じです。
これは人間が神によってそのように作られているのですからそれで良いのです。

問題はその次です。
世俗主義者は「自分が一番可愛い」ということのために全てを犠牲にします。
聖書は目先の利益のためではなく、永遠の祝福のために自分の命を犠牲にするようにと教えています。

②世俗主義の本質はダブルスタンダード

律法を振り回し信仰が深いふりをしますが、一方では自分に有利になるように政治権力をも利用します。
このような事が二千年前から行われていたのかと思うと「人間て変わらないね」と妙に納得することです(笑)。

戦前の我が国でも同じようなことが行われました。
説教壇からは正義や憐れみが語られるのですが、裏では保身のために神道原理主義政府の言いなりになっていたのです。
「ここは天皇陛下の忠実な臣民として振る舞わなければ非国民扱いされ迫害されてしまう」
この言葉は二千年前のユダヤ教指導者が叫んだ言葉になんと似通っていることでしょうか。

3.世俗主義の現代教会への影響

①世界宣教をしないことを神のせいにする

カトリック教会が世界宣教の分野で著しい成果を上げていた時、プロテスタント教会は世界宣教に全くの無関心でした。
その時代に宣教を志す者はプロテスタント教会からの冷笑を覚悟しなければなりませんでした。
その当時のプロテスタント教会の言い分は「もし世界宣教が神の御心なら、神が私たちの先に行ってくださり、あっと言う間に宣教をなし遂げてくださる」というものでした。
思わず「もっと聖書読めよ!」と言いたくなりますが、これが当時のプロテスタント教会の水準でした。

②世俗主義は日本のキリスト教会に戦前からあった

世俗主義の文化的背景は人の目を恐れる村社会意識です。
行動の動機が神への畏れにもとづいて神に従順するのではなく、人が自分をどう見るかにもとづいて人の目に格好よく映るように行動するのです。

③よその教会のことには口を出さないというやり方

「余計な波風は立てない」という考えが日本人にも日本の教会にもあります。
聖書がどのように「教会の公同性」を教えたところで、そんなことはお構いなく自分たちの世俗的論理が優先されてしまうのです。
しかもそれが聖書に反するという自覚さえ持つことがないのです。

罪を犯しても悔い改めようとしない牧師と連携を取り、交わりを平気で持ち、批判されると「これのどこが悪いのか」と開き直ります。
その一方で教会のトラブルを解決しようとする人たちに向かって「神が解決してくださるのだから、そんな余計なことをする必要はない」と言います。

世俗主義キリスト者の言い分はいつも同じです。
それは「あなたが言うことが神の御心なら、そんなことは私たちがしなくても神ご自身がしてくださるはずだ」というものです。
しかしこれが神の裁きの座で通用せぬ戯れ言であることは聖書を読んだことがある者にとっては自明のことです。
世俗主義キリスト教は聖書信仰とは相容れぬものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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