皆さんは一番大きな愛は何かご存じですか?
ありのパパは知っています。(大きく出ました(笑))
1.大きな愛を知るための準備
『人が友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません』[ヨハネ15:13]
①自分を変えていただくための法則
この聖書の言葉を読んで、多くの人は「そうだよね~」で終わります。
そして普段と変わらぬ日常生活に戻っていきます。
人生が変わってしまうほどの大きな衝撃を受けるにはどうしたら良いのでしょうか?
一番目は自分自身の内面で求めることです。
二番目は御言葉に伴う聖霊の働きを心のうちに頂くことです。
三番目に聖霊が御言葉をもって心に確証を与えてくださるのを求めることです。
そうしたら必ず人生が変わります。
これは誰かと比べて変わったということではありません。
自分自身の人生が御言葉の確証を頂く以前と以後とではまるで変わってしまうということです。
②本物の愛は命がけで愛し合う
この御言葉はどのような所で出てくるかと申しますと「何でも欲しいものを求めなさい」という御言葉のあとに出て来ます。
そして「友のために命を捨てる愛が一番大きい」と言われた後で「あなた方は互いに愛し合いなさい」という最終的な戒めが与えられます。
教会の姉妹たちが「愛し合うのよね~」と言うとき甘酸っぱさを感じます。
しかし姉妹たちに「その愛は相手のために命を捨てるほどの愛ですぞ!」と言っても、それでもなお「私たちは愛し合う」と言うでしょうか?
それとも「やっぱりや~めた」と言うでしょうか?
こんなことを書いていると、どこからか「そんな愚かなこと考えている暇があったら、夫たちは妻たちのために命を捨てるほどに愛しているかどうかを自問自答せよ!」という声が掛かりそうです(笑)。
2.罪を愛している者は救われることができない
『キリストは私たちのために命を捨ててくださった。これによって私たちは愛とは何かということを学んだ。ですから私たちも他の兄弟のために命を捧げるべきです』[Ⅰヨハネ3:16]
①救いの確信に対するありのパパの考え
ありのパパはキリストを救い主と信じる信仰に入ったのちも、自分が救われているという確信がありませんでした。
さまざまな立場の方がこの問題について色々なことを言っていましたが、ありのパパは次のように考えました。
「救いの確信を持たないまま信仰生活を始めてしまうと、後で信仰生活が困難にぶつかったり、うまく行かないことがある時に『やはり救いの確信がないからこうなった』と思いたくない。少なくとも救いの確信があれば『色々な問題は確かにある。しかし自分自身が救われていることだけは確かなことである』と考えることが出来れば試練・困難があっても後ろ向きにならずに歩んでいくことが出来るのではないか」と考えました。
②罪から救われたい心と罪を愛する心
「もし救われていないのでしたら救ってください。すでに救われているのでしたら救いの確信を与えてください」と神に向かって祈り始めました。
そうしたらところ次々に神からの応答がありました。
それは「あなたは罪を憎んでいない」ということでした。
「救いとは何か」と言われるなら、それは罪からの救いです。
ありのパパは救いの確信を得たいと熱烈に願いながらも罪自体を愛していました。
そのことに気づかされました。
なんという大きな矛盾でしょうか!
しかし自分の心のうちを見てみると罪を憎む心がこれっぽっちもないことは明らかでした。
それで神に「私は罪を愛しております。しかしそれにもかかわらず罪から救われることを願っております。どうぞ神の恵みによって罪を憎む心をお与えください」と祈りました。
③罪の言い表しと悔い改め
「自分が犯した罪を一つ一つ思い出して悔い改めなさい」という導きが与えられました。
それで何をしていても過去に犯した罪を思い出すとメモ帳に記入し、夜寝る前にそのメモに基づいて一つ一つ罪を悔い改めていきました。
思い出すは思い出すは、これでもかというぐらい思い出しました。
3.信仰は愛の実践に他ならない
三ヶ月間ほどこのような主の御前での営(いとな)みが続きました。
しかし遂に神の御業(みわざ)が与えられる時がやってきました。
それは忘れもしません。1975年2月7日午前2時半のことでした。
①ありのパパが救いの確信を得た経緯
ありのパパは聖書を読んでいて不思議に思うことがありました。
それは初代教会の人々は自分が救われているかどうかを問題にしていないということです。
そしてなぜか信仰に入った後、喜びの満ちあふれる信仰生活を送っているのです。
それに比べて自分と来たら座り込んで自分が救われているかどうかを問題にしているのです。
その時、聖霊の語りかけがありました。
それは『キリストは私たちのために命を捨ててくださった。これによって私たちは愛とは何かということを学んだ。だから私たちも他の兄弟のために命を捧げるべきである』という御言葉でした。
この御言葉を黙想しているとき『人が友のために命を捨てるより大きな愛はありません』という御言葉が与えられました。
その時、稲妻のように「分かった!愛の原理によって生きるのが信仰生活なのだ!」という理解がやってきたのでした。
それに続いて、ありのパパが下宿していた三畳の部屋に聖霊による喜びが洪水のように押し寄せてきました。
それは息が出来ないと思われるほど激しいものでした。
②道はいまだ遠い
ありのパパにとって信仰とは命を捨てるほどの愛をもって友を愛することにほかなりません。
この目標を実現するために聖霊のバプテスマがありますし、異言の祈りもあります。
もっと言うなら教会も信者をしてこのような愛の実践に向かわせるための教育機関ですし、宣教も世界の人々を共に愛し合う者へと変貌させるための働きです。
出発も良かったし、聖書も確かなものでした。
しかし振り返ると自分勝手な思いで回り道をし、人々をお助けすることの極めて不十分な者でした。
悔い改めて再出発させていただきたいと願っています。
◎平安と祝福を祈っています。
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