ありのパパが若いとき、信仰上の指導に対して疑問がありました。
それは聖化とか全き聖化と呼ばれるものに対してでした。
救われたときは「ありのままのあなたでいい」と言われたはずなのに気が付いてみると「聖い人になろうね」と言われているのです。
そして周りを見渡すと聖化にふさわしく振る舞おうとして明らかに無理をしている人々が多くおられました。
聖書は何と言っているかと思って聖書を読んでみると、やはり聖書も『聖くなければ主を見ることができない』と書いてあるのです。
ありのパパはこれを読んだとき「では納得せざるを得ないな」という思いと、「これじゃ話が違うよ」という両方の思いが交錯する複雑な気分を味わいました。
そこで真の聖化とは何かを考えます。
1.聖化についての問題の本質は聖化の意味を捉え損なっていること
①真の聖化理解とはどのようなものか?
「ありのままのあなたで良い」と救っていただいたのですが気が付くと律法主義に戻っており、自分にも人にも「こうなれ。あぁなれ」と律法主義の物差しを当てているのが私たちではないでしょうか?
私たちの心の奥底に根付いている律法主義から解放されて「ありのままで良い」と自分自身にも隣人にも言える生き方の実現が聖化の目的なのです。
これなら聖書の教えと矛盾しません。
②真の聖化のためには聖霊のバプテスマが必要
聖化とは「ありのまま人生」の実現であると理解するようになるまでは、ありのパパにとって聖霊のバプテスマの目的を本当に理解することは出来ませんでした。
ありのままで良いといわれたクリチスャンが、そのままでは不十分だから聖霊に満たされなければならないと言われるのか大きな矛盾を感じていました。
しかし聖霊充満は聖書の命令であり、避けて通れないものであることは明白でした。
③神の力を求めなければ実践できない
ありのままを生きることが真の聖化であると理解してからは「鹿が谷川の水を求めるように」聖霊を求めるようになりました。
なぜなら、ありのままで生きようとすればするほど自分の無力を認めざるを得ないからです。
これは聖霊によらなければ実現することの出来ない生き方であることが、ますますよく分かるようになりました。
2.神学は必要ないか?
①神学は集合知
神学は歴代の教会が聖書を正しく理解しようとした営みの集大成です。
歴史上の様々な問題に対して聖書はなんと言っているかを読み解こうとした集合知とでも言うべき存在です。
②神学を否定すると教会がカルト化する
神学を否定する人々で最後まで健全な信仰を維持できた人は非常に少ないです。
現在、問題になっている人々の多くがこの立場をとる人たちですし、分離主義カルトの人々もまた神学否定の立場をとります。
3.聖書と神学の健全な関係とは?
①神学とは聖書を現実の世界に適用したもの
私たちは現代に生きるクリスチャンとして現代の課題に聖書を適用しなければなりません。
それは過去に積み上げられてきた神学に、現代の私たちが一ページを加える作業をするということです。
②私たちは神学という名のリレーの選手
私たちには教会の集合知である神学を受け取り、私たちがより豊かなものにした神学を次世代の教会へ受け渡す役目があります。
③神学を鵜呑みにしてはならない
自分の依って立つ神学に不十分なところがあるのを感じているにもかかわらず、神学を改訂する作業に挑戦する代わりに、神学を軽視することでバランスをとるというようなことがあっては決してなりません。
その時、教会は世俗化とカルト化という両極端の敵の餌食になってしまう危険があります。
真の聖化とは、ありのままの自分自身と隣人を受け入れつつ生きる人生の歩みを指しています。
◎平安と祝福を祈っています。