願いを聞いてもらうだけの信仰から、神の意志を実践する信仰への転換

イエスは 『わたしにつながっているなら、どんなものでも好きなものを求めなさい』と言われました。
ところでカルト裁判で有名になった浜松の教会の牧師は、この神の約束をいちずに信じて教会建設に励みました。
その結果、教会は日本有数の規模に成長したのですが、大変残念なことに教会員への人権侵害・性的暴行の罪で訴えられ、裁判ではその事実がみな認定されました。(判決は時効のため訴えが取り下げられました)

この牧師は神の約束通り自分の欲しいものを求めただけですのに、なぜこのような惨憺たる結果に終わってしまったのでしょうか?
それを今日は皆さんとご一緒に考えます。

1.何を求めれば良いのか?

①心の癒しを求める

この「神の約束」を握って莫大な財産を得た人がアメリカなどでは多くおられました。
しかしその方々は悲惨な結末を迎えた方が多かったようにも聞いています。
なぜでしょうか?
それは自分に本当に必要なものが何かを知らなかったからです。

すべての人々の心に癒しがたい空虚感というものがあります。
しかしこの空虚感を自覚している人はまれです。
多くの人は空虚感を神に満たしていただく代わりに神の代替物で満たそうとします。
この代替物とは富であったり、名声であったり、性的なものであったりします。

私たちは気づきを得て、自分に一番必要なものは神に心の空虚感を満たしていただくことであるのを知らなければなりません。

②人間関係の祝福を求める

先の浜松の教会の例では、元教会献身者によると鉄拳制裁(てっけんせいさい)などは当たり前のことだったそうです。
外の奉仕から帰って来てすぐに牧師のところに挨拶に行かないと牧師から「とりあえず眼鏡を取ってもらおうか」と言われるので、何かと思っていると殴られたそうです。
これ自体は人権侵害以外の何ものでもありませんが、このことからは牧師が人間関係を作るのが苦手であったことが分かります。
しかしこの牧師は神に人間関係を作る術を求めることをせず、ただ目に見える祝福だけを求めました。
その結果、所属する教団からの脱退や、キリスト教界内で告訴を連続して起こすなどの人間関係に破綻した者が起こす典型的な行動を示しました。

人間関係の祝福の基礎は相手を変えようとせず、ありのままで受け入れることです。
人間関係に失敗する人を見ていますと共通するのは自分の都合のよいように相手を変えようとすることです。
人間は誰でも自分が変わらずに人を変えたいものです。
このような有り様に変革をもたらすためには神の恵みが必要です。
この面においても気づきを得て無力を認め、神にならこの問題を解決することが出来ると信じる信仰を持つことが必要です。

③働きの祝福を求める

自分自身の問題が解決し、人間関係の問題が解決したら、その時こそ働きの祝福を神に求めるときです。
この時どんな祝福を求めようとも与えられた結果が自分の人生が崩壊させる危険はありません。

しかし問題が完全に解決することはこの世に生きている間はないことですから『あなたの心を力の限り見張って、悪いものが心の隙間から入り込まないようにせよ』との神の戒めを実践したいものです。

建築物に例えるなら、自分自身の問題は基礎に当たり、人間関係の問題は土台に当たります。
基礎と土台がしっかりしていればどんな家を建てようとも揺らぐことがありません。

2.なぜバランスを欠いてしまうのか?

①イエスの言葉を守ろうとしないから

リベラル派クリスチャンから見ると異様に感じるかもしれませんが、福音派クリスチャンにとっては御言葉が神によって個人的に語られるという経験は珍しいものではありません。
信仰の体験談をお話するとき当たり前のように「祈っていたら、このような御言葉が与えられました」と言います。

このように神から直通(!)で御言葉が与えられることを良しとする福音派教会では聖書の文脈から離れて、ある特定の御言葉を聖書から切り取ってしまうことが時々あります。
その典型的なものが今日のテーマである「何でも欲しいものを求めなさい」です。
この御言葉の前後を一緒に読むなら、どう読んでも間違って読むことはないのですが文脈から離れて自分が読みたいように読んでしまうのです。
このような場合、決してイエスの御言葉を守っているとは言えません。

②自分自身が見えていないから

イエスのこの教えの最後は『互いに愛し合いなさい』です。
この牧師は自分が献身者をぶん殴るということをどのように捉えていたのでしょうか?
裁判では「愛の表現として多少の暴力はあったかもしれない」と陳述しています。
これは子供殺しの両親が裁判で「しつけのためにやった。死ぬとは思わなかった」と言うのと全く同じです。

③愛の大切さが本当は分かっていないから

神学校を出ているなら聖書の教えは知っているはずです。
しかしこの牧師は信徒や献身者との人間関係を構築するのに暴力を用いることしか知りませんでした。
少なくともこの牧師には愛し合うということがどういうことか全く理解できていなかったことだけは確かなようです。

3.「正直に生きる生き方」を選び取る

①正直に生きるとは?

正直に生きる生き方とは嘘をつかない生き方ではありません。
むしろそれとは真反対の生き方です。

正直に生きることを講演しておられる方のところに、ある会社から「嘘をつかない生き方」というテーマで話をしてほしいという依頼があったそうです。
そうしたところ、その方は依頼された会社の方に「申し訳ありませんが私はそのテーマでお話をすることは出来ません。このテーマなら詐欺師に依頼されるのが最も適当であると思います」とお答えになられました。
これは「嘘をつかない生き方」は結局のところ「ついた嘘を隠す生き方」に堕してしまうということを仰りたかったのでした。

では正直に生きる生き方とは、どのような生き方でしょうか?
それは失敗や過失を犯すことは人間にとってどうしても避けることの出来ないものであると認め、その失敗や過失を隠さず、むしろ積極的に認め今後の活動に活かそうとする生き方です。

○浜松のカルト教会の問題にこの原則を適用するならこうなります。

今のような状況になったのは牧師である自分の責任であることをはっきりと神と人の前で、また自分自身に認めることです。
「あの人が悪い」「この人に問題がある」と人のせいにするのを止めて、自分に問題があるのをはっきり認めることによってのみ道は開けます。

②無力であることを認める

私たちは誰でも自分が持っているもので事態に対処しようとします。
それでは如何ともしがたいことが明らかになって初めて自分が持っていないもので事態に対処することを決断させられます。
この牧師の場合も人間関係のスキルが乏しいことを自覚しないまま伝道者になってしまい、現場に出てからは自分に人間関係能力が乏しいことを感じつつも気づかない振りをしたのではないでしょうか?
そして自分が持っているものでは追いつかないことが明らかになったとき、暴力と教会のカルト化という禁じ手を使ったのです。

この牧師がなすべきことは正直に生きる生き方を選び取り、人間関係における能力が乏しいことを認めることです。
そして神様ならこの問題を解決することが出来ると信じることです。

③自分の意志と生き方を神の御心に従わせる

多くの人はこのような決断を他人に知られたくないと願います。
ありのパパもそのような人間の一人です。
しかし新しい生き方を始めるのに最も良い方法は過去の生き方に厳然と決別することです。
そのためにも人々の前で過去の自分のやり方を悔い改めることがどうしても必要になってきます。

『あなたがたは良いスタートを切ったのに、なぜ今になって肉の力で完成させようとするのか?』と聖書は言っています。
信仰とは自分が無力であることを認め続けることにほかなりません。
それが働きの実が成長してくると働きに信仰を置くようになる危険があります。

神はすべての人に気づきを与えておられます。
この神の光に応答するかどうかは私たちの自由意志に掛かっています。
すべての信仰者が『死に至るまで忠実であれ』と言われた神の命令に従うようにと願ってやみません。

◎平安と祝福を祈っています。

9件のコメント

  1. はじめまして。ありのパパさん。
    私は福音派に客員で通っていたものです。
    新会堂の事で自分の教会に疑問を持った時このブログに巡り会いました。
    うちの教会は現在立派な会堂や複数の駐車場を保持しているにもかかわらず「祈りによって与えられた御言葉によって新会堂を求める事になった」と言うのですが、今こんな震災が起きて礼拝もままならぬ教会もあるなか、何を求めているのか私には解らずメールした次第です。
    私は神様のみこころがわかりません。
    ありのパパ教えてください。

    1. ぴよさん、こんばんは。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      ○最も大切なことは、ご自分で会堂建設に対する神の御心を聖書と祈りを通して、神に伺うことです。
      これなしには確信も内なる平安も与えられることはありません。

      ○私が青年であったとき、所属する教会が新会堂建設に動き出したことがありました。
      私個人は大変な拒絶感をもちました。
      しかし祈ってみたところ「この働きは神の御心であり、これに反対してはならない」という御言葉が示されました。
      それで私も会堂献金に応じることにしたのでした。

      ○どうぞ、個人的に神のもとに行き、神の御心を受取られますように祈ります。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. ありのパパさんコメントありがとうございます。

    なんか祈ったらふさわしい者には与えられると言ってました。
    自分は以前からどうしても超えられない心の葛藤がついに爆発してしまい今は恥ずかしくて教会に戻れません。
    でもありのパパのブログに励まされて今は心の棚卸中です。
    いろんな思いや感情が緩やかに流れて行っていつか自分から求めて行ける日が来るといいなと思います。

    ありがとうございました。

    1. ぴよさん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      第4ステップの棚卸をするときには、是非とも1から3のステップを踏みつつ行うことに留意されると良いと思います。
      十二ステップを行う全ての人に、心穏やかに過ごす日が訪れることを堅く信じるものです。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. お久しぶりです。長らくご無沙汰していました。

     「求めなさい。そうすれば与えられます」

     私はこのみことばを思い巡らせていたのですが、これは、神が願い求めることを私達も願い求めることではないでしょうか。
    そうすれば、神と一致することになりますよ。

     また、「神のみこころ」についても、考えてみたのですが、

     これが神のみこころ、あれが神のみこころ、どれが神のみこころ

     などど、何でもかんでも神のみこころにしてしまったら、神様も大変ですね。

     大切なことは、何が起ころうとも、どのような結果になろうとも、全てに於いて神に信頼して、お任せすることではないでしょうか。

     そうすすれば、何かしらの良き恵みがいただけるはずです。

    ***
     出過ぎたことを書いてしまいすみませんでした。

                     祈りの内に

  4. いろんなコメントありがとうございます。
    なんか不思議なのは毎朝やっぱり自分が客員で行ってた教会に戻るべきか祈っていると、虫が私の周りをぶんぶんどこからともなくやって来て、その事を考えるのを止めるといなくなるという事が毎朝あって、これは私が病気でひどい皮膚病であっちに行きかけた時、虫が来てそっちじゃないと言っていたので今があるみたいな、だから今回祈祷会に毎回のように通っていたのに、ある日突然何かが降って湧いたみたいな感じで自分でも解らない気持ちでした。
    でも何か自分の中の動かし難い気持ちが自分を別な方向に導いているのを感じて、それから聖書を始めから読見直す事になり、教会も別なところに移りたいという気持ちがとても強くなりました。
    自分でもよく解らないのです。こんな事ってあるのですか?

  5. 何度も悩み、やっとわかった事は、私は本音で生きたいのに教会のまわりの人たちは建前でほとんどが生きているから、なんとなくそりが合わなかったんですね。
    でもありのパパもそういうので悩んだ時代の事が書かれていて、それはそれで認めるっていうのが自分には出来てなかったんですね。
    だから苦しかったんですけど…
    他の教会には本音でがちで付き合える人がいるのでどうしても楽な方に流れて行きたい自分がいます。
    でも逃げないでやってみます。
    ありのパパが1日に感謝してやって来たように…
    これからも応援しています。
    ありがとう。ありのパパさん。

  6. ぴよさん、こんばんは。
    コメントをありがとうございます。

    どうぞ神様の御心であると確信する道を今まで歩んでこられたように、これからも歩まれますようにと祈ります。

    またコメントしてください。お待ちしています。

  7. Jクルスさん、こんばんは。
    コメントをありがとうございます。

    味わい深い考察ですね。
    確かに仰るような、一人芝居的な信仰の空回り・空騒ぎがあります。

    私たちお互いは神の御心を確信してしっかりと立つと共に、受け入れがたい現実を前にして「この現実にどのように対処することが神の栄光を現すことになるだろうか?」と自らに問いかけつつ、歩みたいものです。

    またコメントしてください。お待ちしています。

コメントは受け付けていません。