曽野綾子さんのインタビューから感じた、彼女もACだったということ

インタビュー

作家の曽野綾子さんが「母を語る」というラジオ番組に出演しておられました。
ありのパパは初めて曽野さんの子供時代のお話を聞いたのですが、それはそのまま100%アダルトチルドレンの物語と言って良いものでした。

①曽野さんの父親は妻や子供に殴る蹴るの暴力をふるった

対談相手の女性アナウンサーは「なぜ子供を連れて実家に帰らなかったのでしょう?」と聞きました。
ありのパパは「あぁ、現代の人だな」と感じました。
戦前のことですから、家を出た女性が一人で生きていく手段は余りありません。
曽野さんも「母は計算したのだと思う。家を出て苦労するよりも、家にとどまって父の暴力を耐える道を選んだのではないかと思う」と語っておられました。

女性の経済的自立が保証されない社会では、女性は奴隷同然の生き方を選択せざる得ない道に追い込まれるのです。

②娘に託した母の想い

そんなご苦労をされたお母様は娘である曽野綾子さんに「ぶれない芯を持った人になれ」と言われて、聖心女子大学の付属学校に入れられました。
ご自身はクリスチャンでも何でもなかったそうです。

曽野さんは聖心に入られてシスターたちの生活を目の当たりに見て考えさせられることも多かったと言います。
曽野さんはシスターたちを「世の中を軽く見ている人たち」と言われます。
これは決して世間を馬鹿にしているということではありません。

イギリスの港を出て、横浜港に着き、そのまま修道院に入り、終生母国に帰ることはなく、日本での奉仕に人生を捧げ尽くすシスターたちを見て、軸足がこの世ではなくイエスがおられる天国にあるということを曽野さんは仰りたかったようです。

③天国のような学校と地獄のような家庭

曽野さんは「天国をかいま見るかのような」学校生活を送りながらも、家に帰れば父親に殴る蹴るの暴力を受けていました。
顔を殴られて、顔を腫らして学校に行くこともあったそうです。
友達に「どうしたの?」と聞かれ、「うん、柱にぶつけてしまって」と答える曽野さん。
曽野さんは「友達はきっと本当のことを知っていたと思います。でも誰も追求しませんでしたね。今と違ってそれがイジメの原因になることもありませんでした」と回想しておられます。

④離婚によってのみ可能になった心の平安

曽野さんはご両親を六十代の後半になって離婚させました。
「ほんとはキリスト教では離婚はいけないんですけどね」と苦笑いしながら、離婚のいきさつを語っておられました。
そしてお母様を引き取られ一生面倒を見られました。
お母様にとっては離婚して初めて暴力に怯えなくて済む生活を送ることが出来るようになったのでした。

⑤絶対的な貧しさの基準とは?

曽野さんは貧困についても明確に語っておられます。
「私には貧乏ということについて明確な基準があります。それは今日の晩御飯を食べることができないという状態です。世界中の貧しいと言われる国々では一家族三千円あれば一ヶ月生きて行くことができるのです。私はこの基準をもとにして貧しい国々への援助活動を続けてきました」

⑥すべてのことに意味がある。意味がないことは決して起きない

曽野さんはご自分のことをアダルトチルドレンとは思っておられないかもしれません。
それぐらいパワフルで活動的な人生を送ってこられました。
淡々とご自分の子供時代をお語りになる曽野さんですが、絶句していたのは対談相手のアナウンサーでした。
もう本当に言葉がなく、最後に出てきたのは「これはまさに小説家の準備としては最高のものでしたね」という言葉でした。
曽野さんは一瞬驚きながらも「そう言えば、そう言うことも出来るかもしれませんね」と答えられました。

⑦『今のときの試練は耐えがたく思われるが、後になって平安の義の実を結ぶ』

人様の苦労話を聞いて何の益があるかというと、今苦しんでいる人が苦しみには意味と目的があるのを悟ることです。
そうでなければ、ただの時間潰しに過ぎません。

曽野綾子さんのように自分の受けた苦しみを苦しみのままにするのではなく、自分の人生の飛躍のために用い、また世界の貧しい人々のために奉仕の人生を送る原動力にしたいものです。
神がそのように備えておられます。

◎平安と祝福を祈っています。

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6件のコメント

  1. 少し前までは、日本では暴力は当たり前でした。父が横暴なのは男らしさだったり、親や教師が子どもをぶつのも教育だったり。
    それを暴力、虐待と呼ぶかどうかは程度だと。私の子供のころもお仕置きと言う事は日常茶飯事だった気がします。
    だから、その時代の人はそれを当たり前と受け取って気がつかないかもしれませんね。

    例えば、子供のころ受けた躾が実は虐待だったのかもしれないと思った時、それはいっそ認めたほうがいいのでしょうか。
    ニュースで見るようなあからさまな虐待じゃないから自分のは躾で、親を怒らせる自分が悪かったんだって思いながら、何処かに違和感のあるまま育った場合。
    何事もなかったように忘れてしまえという意見、何でも親のせいにするなと大したことじゃないという意見が広く言われているような気がします。

    本当の癒しに進むためには、本当に虐待されていた人に比べたらあれくらい…と遠慮せずにきちんと向き合って、あれは暴力だったと認めるほうが健全なんでしょうか。

    違うと信じる方が癒されるのでしょうか。

    ケースバイケースでしょうか。

    1. 冬猫さん、こんばんは。
      コメントありがとうございます。

      そうですね。以前の我が国はDV男の量産工場のようでした(笑)。

      >例えば、子供のころ受けた躾が実は虐待だったのかもしれないと思った時、それはいっそ認めたほうがいいのでしょうか。

      ○はい、認めた方が良いと思います。

      >ニュースで見るようなあからさまな虐待じゃないから自分のは躾で、親を怒らせる自分が悪かったんだって思いながら、何処かに違和感のあるまま育った場合。

      ○そのように思っているのが、実はアダルトチルドレンであるのです。
      子供時代はそうやってしのいできたのですが、大人になっても同じような問題解決の方法を無意識に採用しているところに問題があります。

      >何事もなかったように忘れてしまえという意見、何でも親のせいにするなと大したことじゃないという意見が広く言われているような気がします。

      ○「何もなかったことには出来ない。これは否定しても否定できない事実であるのだ」と認めない限り、癒しが始まりません。
      ただし、それを当事者に言うかどうかはまた別の問題です。

      >本当の癒しに進むためには、本当に虐待されていた人に比べたらあれくらい…と遠慮せずにきちんと向き合って、あれは暴力だったと認めるほうが健全なんでしょうか。

      oその通りです。

      >ケースバイケースでしょうか。

      ○確かにケースバイケースというのはあります。
      それは自分が納得しない限り、(人が提案する)解決は自分の解決とはならないからです。

      ◎無限に成長するということは、無限に癒されていくということでもあります。
      正直に認めることが、その基礎となります。

      またコメントしてください。

  2. お返事ありがとうございます。
    暴力は男親だけとは限りませんしね。
    ヒステリックな母と言う原因もあったり。
    大人への成熟を無意識に邪魔をするというものもあったり。

    そう言う事も含めて自分の子供時代を正しく認識することは大切なんですね。
    そして、とても苦しいものだと思いました。

    特に、健全な家庭で育ったと思われる人は「考えすぎだよ」と優しさで言ってくれたり、普通に「親を大切にしなさい」言ってくれたりします。
    こう言う人たちに説明することは非常に困難だと感じます。

    聖書にある「親を敬う」と言う言葉に縛られて最初は赦そう赦そうと頑張るのですが、赦せた!と思いながら「許せなかった」行為を次々思い出すような場合、聖句がとても重く感じたりします。

    ACであるならば、まず事実を見つめて、癒しを先に受け、それから聖書に従うでもいいのでしょうか。

    親を愛している、けれど大っきらい。こんな感情がACには分かるのではないかと思います。

    正直であるという事は時にとても困難に感じます。

    1. 冬猫さん、こんばんは。
      コメントありがとうございます。

      ○一見健全な家庭に育っているように見える人も、そうではない場合が多くありました。
      それで今は意地が悪いかもしれませんが、ほとんどの人はアダルトチルドレンであると勝手に思い込んでいます(笑)。

      ○神様はと言うか、聖書はと言うべきか、暴力親を許せなどとどこにも書いてありません。
      これもアダルトチルドレン特有の思い込みと読み込みではないでしょうか?
      「だって教会でそう教えられた」かもしれません。
      そうです。牧師にアダルトチルドレンが多いのですね(笑)。

      >ACであるならば、まず事実を見つめて、癒しを先に受け、それから聖書に従うでもいいのでしょうか。
      ○それ以外、どんな解決の道があるでしょう。
      どうぞ、その道を歩んでください。

      >正直であるという事は時にとても困難に感じます。
      ○そうですね。でもね、もし抑圧するなら、いつか必ずその影響が人生に出てきます。
      正直に生きることは、時に困難を覚えることですし、辛いことですが、病気にならず、無限に癒されていく生き方の土台です。

      では、おやすみなさい(笑)。
      またコメントしてください。

  3. 曽野綾子さんがDVの父親を持っていたことを知り興味を持った結果、このブログをみつけました。
    私の母は人格障害の病を持ちいつも家の中では暴力的で、また近所の方々に喧嘩を売って嫌われていました。
    私の人生目的は常に母から離れることでしたが、宿命なのか今は90になった母の世話をしています。
    弟は私よりもっと傷つき、家と絶縁をはかったので私が彼女を看るのはやむをえないことでした。

    キリスト教と仏教の本を読みました。
    私の得た結論は、母の持つ罪(母自身も身体的障害を持った父親からDVを受けて育ったのでした)もさることながら、このような母のもとに生まれた自分の罪、あるいは宿業であるということ。
    現世での自分の使命を自覚して、大嫌いな母を私なりに大切にし、自分の原罪あるいは悪業を善へと転換していくことでした。

    曽野綾子さんが(地獄と表現されてらっしゃるのでしょうか)よくご自分の家庭環境に負けず立派に成人され、あれだけたくさんの作品を発表されたことに感服しています。
    何冊か読ませていただきましたが、読みやすさの中に哲学を感じました。

    80を過ぎる頃から母は認知症になってある日喋れなくなり、一生続いていた私への言葉の攻撃が止まりました(涙)。
    この二年間私は生まれて初めて癒されました。
    うちの場合、母自身がまずACであり大きなトラウマをかかえながらも私たち兄弟を必死に育てようとしたことはわかったので、私はやっと母に感謝ができました。

    1. こんにちは、RSさん。
      コメントをありがとうございます。

      さぞ、お苦しかったであろうこれまでのご人生を吐露いただき感謝をいたします。
      人生はいつでも「これからが本番!」です。
      お互いは重荷を下ろし、前を向いて歩みたいものてす。

      これからもよろしくお願いします。

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