人が変わるためにはどうしても「あなたはそのままでいい」と言ってもらうことが必要です。
「変われよ!」と言っている限り、人は変わらないということを知らなければなりません。
そこで聖書から「変わらなければならない」と思っていた人が「変わらないで良い」と思えるようになった実例を見ていきます。
①マルタとマリアとラザロの三兄弟
二千年前にユダヤのある地方にマルタとマリアとラザロという三人の兄弟がおりました。
マルタは働き者で段取り上手であり、考えるより体が先に動くという性格でした。
マリアは内省的であり、感情の動きを大切にする人でした。
ラザロはいったんは病気になり死にますが、イエスによって生き返らせてもらった人です。
イエスはこの三兄弟と仲が良かったようです。[ルカ10:38~42]
②イエスに本音でぶつかるマルタ
イエスをお迎えして食事の支度を忙しくするマルタですが、マリアは相変わらずボォ~っとしてイエスの膝元に座り込んでイエス様のお話に聞き入っています。
マルタはこの光景を見ていると段々むかむかし、遂に堪忍袋の緒が切れてしまいます。
「私がこんなに一生懸命働いているのに妹のマリアが何にもしないことをあなたは何とも思わないんですか。キィ~!」
イエスを信じていても本音でイエスにぶつかるマルタの正直さに圧倒されます。
もしマルタが日本人クリスチャンのように自分の不満を口には出さず内心むかむかしているだけで、イエスがいなくなってから他の人にマリアの悪口を言うのであれば奇跡を体験をすることもなかったでしょう。
③自発的応答を求めるイエス
イエスは優しくマルタを教え諭されます。
「大事なことはそんなに多くない。いや、大切なことは只一つ」
イエス様が素晴らしいのは「食事づくりなんか後回しにして俺の話を聞けよ!」とは決して申されなかったことです。
このことはマルタに「ではどうすることが最善なのか?」という問いを投げかけました。
そして自分なりの答えを出すことをイエスは求められました。
普段から姉のマルタに「あなたは本当にのろまね。どうしてさっさと動けないの」と言われていたであろうマリアにとってもイエスの言葉は劣等感から解放されるに十分だったでしょう。
④一番大切なことは神を信頼すること
弟のラザロは病気で死んでしまい、死臭が匂うようになった段階でイエスによって生き返らせられました。 [ヨハネ11:1~44]
人は大きな出来事が起きると些細なことには構わなくなるものです。
人がどうして自分や他人の行いに拘るかというと、それは人間の行いが全てを決定すると間違って思い込んでいるからです。
マルタは目前で死人の生き返りという圧倒的な奇蹟を体験しました。
しかもイエスに「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光(圧倒的な奇蹟)を見ると、わたしは言ったではないか」と駄目だしをされているのです。
このことによってマルタは行いは二の次の問題であり、一番大切なことは信じることであるのを肝に銘じたに違いありません。
⑤どのような変化がこの一家に起きたか?
イエスが十字架にお掛かりになる一週間前に、もう一度マルタ達の家を訪問なさいました。[ヨハネ12:1~8]
イエスから教えと奇蹟をいただいてマルタとマリアはどのように変わったでしょうか?
それが笑えるぐらい全然変わっていないのです。
マルタは相変わらず食事の席で給仕をしていました。
ラザロは末っ子らしくイエスとご一緒に食事の席に着いていました。
マリアはと言えば超ウルトラビックリの行動に出ます。
なんと高級品の「ナルドの香油」をイエスの足に塗り、それを自分の髪の毛で拭いたのです。
「塗り」とありますが、香油の量は300gであり、実際には「イエスの足にぶっかけた」というのがふさわしいでしょう。
それで香油の香りが部屋一杯に拡がったのでした。
目には見えない真の変化が、この三兄弟のうちには起きていました。
それはマルタの心の中には、
a.マリアを裁く心が無くなった。
b.行いと共に信仰が大切であるというバランスの取れた理解を持つようになった。
c.全てのことは神が支配されておられるのであり、現在の出来事には必ず意味があるという理解を持つようになった。
マリアの心の中には
a.「私は私のままで良い」という理解を持つようになった。
b.「大切なことは只一つ」とイエスに言われたことによって焦点をどこに当てれば良いのかが明確になった
c.人から非難されなくなったので抑圧されずに自分らしさを発揮するようになった。
人が[変わらなくても良い]ということを悟るには三つのステップがあります。
一つ目は本音で生きるということです。
二つ目はイエスから教えられることです。
三つ目は体験です。
この聖書の方程式を忘れずに生きていきたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。