信仰は自分の無力を認めることを前提にしています。
しかし人間が罪深いのか、サタンの仕掛ける罠が巧妙なのか、私たちは時々自分の無力を忘れてしまいます。
それで手痛い失敗をしてしまったあとに正気に戻って「何が悪かったのか?」と考えてみると、どうやら自分の無力を忘れていたことに気づきます。
どうしたら自分の無力を認め続けることができるでしょうか?
目次
1.無力を漠然とではなく、具体的に明らかにする
①どんなことに無力なのか?
クリスチャンの決まり文句に「罪深い存在です」というのが、あります。
ありのパパはこの文句を聞くと胸くそが悪くなります(笑)。
なぜならこの様なことを言う人に限って実際は自分が罪人だなどとはちっとも思っていないことが多いからです。
本当に自分のことを罪人であると思っている人は「ではどういう点で無力を感じますか?」と聞かれたら、即座に「はい、私はこのことにおいて無力です」と答えることが出来ます。
皆さんは、如何ですか?
②無力でないことはあるのか?
これも良くあることですが「すべてに無力です」と平気で答える人もいます。
これはふざけた人であるか、一度も自分自身の罪性に向き合ったことのない人です。
神の意志に従おうとする人なら誰でも自力で出来ることと、神の助けがなくては出来ないことの区別を知っているものです。
たとえばありのパパの場合ですとダイエットは普通に実行できます。
別段、祈ろうとも思いませんし、神の力を借りようとも思いません。
しかし雑事の処理については段々積み上がっていく雑事の山を目の前にして「神様、助けてください。私は無力です。あなたのお力をください」と祈らなければ、実行することが出来ません。
このように人は誰でも強みと弱みを持っているものです。
そしてその弱みが致命傷とならないように神の力をいただかなければならないのです。
③自分の弱点を具体的に知っていることが重要
アルコール依存症の人は酒を売っているコンビニに立ち寄ることをしません。
なぜなら習慣的にそのコンビに通っていると、いつかはアルコールを買ってしまうときが来ないとは限らないからです。
このように自分の弱点を具体的に知っている人は自分の無力を忘れにくいと言えます。
2.一日を始める前に無力であることを告白し、神の助けを求める
①主の祈りを用いる
主の祈りの中に「私たちを誘惑に会わせず、悪(しき者)からお救いください」という祈りがあります。
毎日、この祈りを唱えます。
呪文のように早口で唱えるなら何の意味もありません。
一言一言味わって、意味を考えながら祈ることです。
②12ステップを用いる
12ステップの1は無力を認め、2は神様なら自分を救うことが出来ると信じ、3は自分の意志と生き方を神の意志に委ねる決心をします。
この12ステップの1から3までを毎日黙想します。
③平安の祈りを用いる
平安の祈りは神学者ニーバーによるものです。
「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして二つのものを見分ける賢さを」
この祈りを毎日祈ります。
3.無力であることを忘れそうになったとき
①祈る前に何かをやろうと考え始めたときが危険
無力であることを忘れる前の兆候があります。
それは座り込んで祈ろうとする前に「あれ、やっとこ!」と思い、祈り以外の何かをしようとすることです。
そうなったら私たちは敗北の一歩手前にいることを気づかなければなりません。
「危ない、危ない。サタンにやられるところだった」と膝をかがめ直して、祈り始めることが出来るなら幸です。
②12ステップの4から先をやる
もしあなたが12ステップの1から3だけをやって4以降をやらないなら、それは念仏を唱えているのと同じです。
またカルト教会の信徒が「サタンよ、出て行け!」と叫ぶのと変りありません。
またカトリック教徒が数珠をくりながら同じ祈りを多く繰り返すのと同じです。
何の効果もありません。
③自分自身を俯瞰(ふかん)して見る
日常生活を忙しく送っていると自分の人生を何年間かの単位で振り返る機会がないかもしれません。
しかし意識して様々なスパンで自分の人生を俯瞰することが大切です。
振り返るとは現在の地点に立って過去を見ることです。
俯瞰するとはヘリコプターに乗って天高くのぼり、自分の人生を神の視点から見ることです。
そうしたとき必ず自分の無力と神の力の偉大さを知ることが出来ます。
地上的視点でばかり自分の人生を見ていると分からないことも多くあります。
無力を認め続けることこそは祝福される人生の基礎です。
この部分が浸食されてしまうと私たちの人生は砂地に建てた家のようになってしまいます。
◎平安と祝福を祈っています。
こんにちは。
自分の無力を認める・・・
私は本当に無力だと思います。
聖書も満足に読めないし、お祈りもできない。
気力も湧かない。
だから今の教会が求めているようなクリスチャンにはなれません。
でも子供が喜んで通っているので通い続けるしかない。
教会には私の居場所は無い。
なんか無限のアリ地獄みたい。
すみませんコメントになっていませんね。
今の私にできることは、神様助けてと心の中で叫ぶだけです。
めぐみさん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
またコメントしてください。お待ちしています。