ありのパパが子供のときに飼っていた犬についてお話しします。
ありのパパは機能不全家族に育ちましたから、生き延びるために人とは少々違う生き方を実践しなければなりませんでした。
それは「安心しない生き方」ということです。
安心しない生き方を続けるとどうなるかというと、安心したりリラックスしていないと感じることが出来ない感情を感じることができなくなりました。
(アダルトチルドレンの問題リストの10番目)

それで青年期には楽しむとか遊ぶとかいうことの意味が分かりませんでした。
今でも楽しむことが苦手ですし「遊ぶって何?」という感じはあります。
そんな中で唯一、感情がわかったのが犬についてでした。
①私は犬を通して感情を学んだ
犬は嬉しいときは嬉しい感情を表し、悲しいときは悲しみ一杯の感情を表します。
また怒りの感情を表すのも、ありのパパには新鮮な体験でした。
ありのパパにとっての大人は突然怒り出したり、突然暴力をふるったり、助けてくれるべきときに知らんぷりをする存在でした。
それがハッピー(愛犬の名前です)は私が撫でるとはじめの内は嬉しそうにするのですが、しつこく撫で続けていると苦痛に感じ怒るのです。
このことによって、ここまでなら受け入れられるけれど、これ以上やると駄目なんだなということがわかりました。
人間には急に怒り出されたり、叩かれたりしましたが、犬の場合は感情表現が豊かであり、相手の反応を見ながら、こちらのやり方を加減することが出来ました。
こちらが見誤らない限り、犬との平和は保たれました(笑)。
②愛犬ハッピーは私を狂気乱舞して迎えてくれた
一年365日、毎日変わることなく迎えてくれました。
このことによって変わらないものがあるということを体験できました。
養育者であった父は急に怒り出したり、叩いたりしました。
母は買い物に出かけると夜中まで帰って来ませんでした。
しかも鍵をかけて家を出るので、子供たちは塀をよじ登って敷地に入り、雨戸を盗人のように開けなければなりませんでした。
養育者から学んだのは人間の感情は不安定なものであり当てにできないということです。
しかしハッピーは毎日無条件に嬉しそうに迎えてくれました。
今から考えると、このことがどんなに励ましになったかわかりません。
③讃美歌『飼い主 我が主よ』
私はハッピーに対して「こんな家にもらわれてきて申し訳ないな。せめて私がこいつを可愛がってやらなければ」と思っていました。
またクリスチャンになってからは『飼い主 我が主よ』という讃美歌を教会で歌うたび、ハッピーのことを思い出し、心の中で「飼い主が神様で良かった。神様なら安心だ」と思ったものです。
愛犬が人間に見せる忠実さは徹底したものです。
この徹底した忠実さに見合う愛を、私は犬に与えていないといつも思っていました。
それにもかかわらず「や~めた。こんな割りに合わない商売はやめた」と言うことなく、飼い主に対して無償の愛を提供し続けてくれました。
④犬との信頼関係
犬の散歩のとき、ハッピーが若いときは嬉しさを爆発させて思いっきり走っていました。
犬が楽しく走れるように伴走するのですが、ハッピーは時々「ついてこれるかな?」という顔をしてこちらを見ます。
あとで本を読んで知ったのですが、この様なとき犬に引きずられたりすると犬は飼い主を「自分より劣った存在」として認識することがあるそうです。
ドッグイヤーと言って、犬は人間の7倍の速さで歳をとっていきます。
飼い主は少年のままです。
ハッピーが若いときはどんどん走ったのですが、歳をとってくると余り走れなくなります。
それでも私の方を見て、昔と変わらずに走ろうとして一生懸命走ります。
しかし私はハッピーが速く走るときも、ゆっくり走るときも、犬が快適に走れるように犬の真横について伴走しました。
そうしていたときハッピーが私の方をじっと見ているのです。
私もハッピーを微笑みながらじっと見ました。
ハッピーは「あなたは力任せに走っているのではなく、私に合せて今まで走ってくれていたんだね」とでも言いたそうな顔でした。
それ以来ハッピーは無理して走らなくなりました。
年に合せて歩くようになりました。
そして遂には散歩の途中で休むようになりました。
そんなときは私の方を見て「ごめんな。ちょっと休ませてな」とでも言いたそうに、にっこり微笑むのでした。
⑤他の犬との関わり
今は犬を飼っていません。
なぜなら犬から受け取る一生分の喜びをハッピーから貰ったからです。
しかし今でもハッピーに似た犬と街で会うと不思議にその犬はその場に座り込んで私が撫でるのを待っているのです。
飼い主がいくら急かしてもその場を動こうとしません。
それで私も「ではワンちゃんにお目通りを願おうかな」と飼い主に断って、膝をかがめて撫でてやります。
そうするとそのワンちゃんは満足したようにスタスタと歩き始めます。
「人間から学べないときは、犬から学べば良い」そんなことを思うときもあります。
◎平安と祝福を祈っています。