聖書には「姦淫の現場で捕らえられた女」の記事があります。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」[ヨハネの福音書8章11節]
この記事を読んで、一番何が心に残ったかを人々に聞いてみると、実に興味深いことが分かります。
それは人によってこの記事から全く異なるメッセージを受け取っているということです。
先を読み進む前に、ここであなたに質問です。
上記の聖書の言葉の中には三つの文章が含まれます。
その中であなたはどれが一番心に残りましたか?
この質問にお答えになってから、先を読み進めてください。
目次
1.「再び罪を犯してはならない」が心に残る場合
①どの聖書の言葉が心に残るかで、あなたの本音が分かる
この聖書個所を読んで一番心に残るのはどこかを聞いてみると、大抵の人は何と物語の最後にある「再び罪を犯してはならない」という個所をあげます。
これは何を意味しているかというと、「一度目は赦してやった。しかしまた同じ罪を犯したら承知しないからな」という意味で受け取っているということです。
それはありのパパの下衆(げす)の勘繰りだという方よ。
でもね、この物語から「イエスがわたしを赦された」というメッセージを受け取った人は、「わたしもあなたを罰しない」という個所が一番心に残るのですよ。
そうではなく「再び罪を犯してはならない」という個所が一番心に残ったということは、赦しのメッセージではなく、警告のメッセージを神から受け取っているということを表しているのす。
②自分自身を本当に赦していたら、人を本当に赦せる
自分自身を赦したつもりになっているときは、ちょっとした人の仕種(しぐさ)さえ許すことが出来ません。
パートナーや友人の些細なクセが許せないという方が時々おられます。
たとえば「うちの主人は本当にだらしがないんです」という奥様がおられます。
なぜご主人のだらしなさが許せないかというと、実は自分がだらしないことを赦してないからです。
「私はだらしなくなんかありません。きぃ~(笑)」そうかもしれません。
あなたは自分がだらしないことを知っており、その自分をだらしなくないように躾(しつ)けました。
そのこと自体は良いことですが、その躾けた動機はどこから来ているでしょうか?
だらしない自分は良くない自分、きちんとしている自分は良い自分という二元論から来ていないでしょうか。
もしそうなら、だらしのない自分を赦していないということになります。
自分はだらしなくならないためにこんなに努力したのに、こんなに我慢しているのに、あなた(この場合は夫)はちっとも我慢してないように見えるのが、本当に腹が立ってしようがない。
これが人を許せない心のからくりなのです。
2.「わたしもあなたを罰しない」
①再び、國母和宏さんのこと
多くの国民が、國母和宏さんの服装を見て憤慨したのは、自分がTPOをわきまえた服装をするのに窮屈な思いをしているからです。
「自分はこんなに窮屈な思いをしているのに、あいつは少しも窮屈そうでない」
これが我慢ならないのではないでしょうか?
だから筋違いの非難をするのです。
彼の服装が非難されたのは、空港におけるものです。
空港における服装は原則として私服扱いです。
開会式でもなく、セレモニーでもありませんでした。
ちょっと考えてみれば分かることですが、彼の服装に対する批判はお門違(かどちが)いのものであると言わざるを得ません。
②赦したつもりと、本当に赦しているのは全くちがうこと
自分のお子さんに友達が出来ないということで悩んでいるお母さんがおられました。
その悩み自体は正当なものであると思われるかもしれません。
しかし、そうであるとばかりも言えないときがあります。
このお母さんはご自身が子供のとき、友達がいなくて辛い思いをされたので、せめて自分の子供には辛い思いをさせたくないという願いを持っておられました。
お母さんがご自分のお子さんを見つめる眼差しの先には、小さかった自分自身の姿が映っていたのです。
それが、お子さんに対して「人間には外向的な性格の持ち主もいれば、内向的な性格の持ち主もいる。みんな違って、みんな良い」という思いを持つことが出来ず、お子さんに対して強迫的な対応をする原因になっていたのでした。
このお母さんに「あなたが子供をありのままに受け入れないで、一体誰が子供をありのままに受け入れるのか」と言わせていただいたところ、聡明であれらたお母さんはよく納得してくださり、「自分が辛い思いをしたので、子供には辛い思いをさせたくないという心で一杯になっていました。そのために子供に無理な要求をしていました。これからは子供の性格に合わせた対応に変えていきます。内向的であることはちっとも悪いことではないのですね。安心しました」と言ってくださいました。
このように自分自身を赦すと、人を許すことが出来るようになります。
3.クリスチャンは教会の内と外で、赦しを提供する使命がある
①クリスチャンは教会内で裁き合っていないか?
裁くところまで行かなくても、十分に赦し合っていると言えるでしょうか?
よく言って、裁いてはいないかもしれないが、決して赦してはいないという状態であるように見えます(笑)。
②未信者の友人や地域の人々、会社の同僚に十分赦しを提供しているか?
クリスチャンと言うと品行方正と言われますが、これは一面では気難しいと思われているということです。
クリスチャンを指して「あの人なら、たとえ何があったとしても自分を赦してくれると思う」と言ってもらえているでしょうか?
それとも………………(笑)。
自分自身を赦し受け入れ、人様をも同じように赦し受け入れる人生を送りたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。