牧師が説教の中で「マイナスは必ずプラスになります!」と力強く宣言しているのを聞くことがあります。
本当にマイナスはプラスになるでしょうか?
結論から言わせていただくなら、「マイナスは決してプラスになることはない」とありのパパは考えています。
今日は皆さんとご一緒に、なぜマイナスはプラスになることがないのかを考えます。
1.キリストの福音は一元の教え
①マイナスはどこまで行ってもマイナス
「マイナスは必ずプラスになる」という主張の前提を考えてみます。
マイナスの現実の世界と、プラスの将来の世界の二つが、この教えには存在します。
私たちがいるところがどんなにマイナスに思える現状であっても、信仰をもって歩んでいくとき必ずプラスの状態に変化すると教えます。
この教えは一見、キリスト教らしい感じがするので受け入れてしまいそうになります。
しかしそうではないのです。
良く考えてみると、この教えはどこかで聞いたことのある教えです。
それは「律法を守ることが出来た人は救われ、律法を守ることが出来なかった人は救われない」という教えです。
マイナスとは律法を守れない状態であり、プラスとは律法を守って救われた状態です。
しかし「律法を守ることによって救われる道」によって救われた人は一人もいませんでした。
②キリストが一元の世界を切り開いてくださった!
キリストが十字架に掛かってくださり、すべての人の罪が処罰されました。
キリストの十字架は、良いと悪いという二元の世界を、皆良いという一元の世界に変えてくださいました。
キリストが十字架にお掛かりになったとき、神殿の聖所と至聖所を仕切っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。
これは律法を守りきるなら救われ、守りきれないなら滅びるという二つの世界を区切っていた幕が、十字架によって一つとなったことの象徴的な現れでした。
そのような訳で、今はだれでも信じるなら救われることが出来るようになりました。
③信仰とは神がしてくださったことを、そのまま受け止めること
神がマイナスとプラスを一つにしてくださったのですから、クリスチャンは「マイナスは必ずプラスになる」などと言って、気張(きば)ってはなりません。
なぜなら既にマイナスはプラスに変えられているからです。
ある人は「言われることは分かるけれど、それでもなお厳しい現実の中で耐え忍んでいく為に[マイナスは必ずプラスになる]と念じても良いのではないですか?」と仰るでしょう。
では次にこの教えを日常生活に適用することは何を意味するのかを見ていきましょう。
2.カウンセリングの視点から見てどうか?
①自分の子供が登校拒否になった場合を考える
これはマイナスと思える現実だと思います。
ご両親が「マイナスは必ずプラスになる」と毎日念じながらお子さんと接したとしたら、お子さんはどのように感じられるでしょうか?
まさに針の筵(はりのむしろ)に日々座らされているように感じると思います。
ある元登校拒否のお子さんが告白しておられたことですが、ご自分の登校拒否のことで親戚が集まり親族会議をしたそうです。
その親族会議の結論は「学校に行け」というものだったそうです。
その結論は親戚のおじさんによって、彼に申し渡されました。
彼は「学校に行きたくなくて、行かないんじゃない。学校に行きたいのに、行けないんだ。それをなぜ分かってくれないのか!」と心の中で血を流しながら、叫んだそうです。
その結果どうなったかと言えば、事態は一層悪くなりました。
この親戚の方々はこの少年の心の傷口に塩を塗り込んだだけでした。
②学校に行っても、行かなくても、あなたは素晴らしい存在
人が癒される道はそんなに多くはありません。
ただ一つであるのです。
それは学校に行く行かないという行いに焦点を当てるのではなく、存在に焦点を当てることです。
神の御前ですべての人は尊い存在なのです。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』[イザヤ43:4]
ご両親が学校に行くように急(せ)き立てると、お子さんに無言のうちに「学校に行けるお前は良い子供、学校に行けないお前は悪い子供」というメッセージを送ることになります。
ですからこの様なときは、学校に行けとか、行かなくて良いとか、行いに焦点を合わせるのではなく、存在自体に焦点を当てて、「行っても、行かなくても、お前は素晴らしい存在」とメッセージを送ってあげることです。
これを受容体験といいます。
受容体験を積むと、人は誰でも癒しに向かって無限に成長を始めます。
3.私たちはキリストにあって、どのようにすべきか?
①聖書的にも、神学的にも、カウンセリング的にも、目の前の状態をマイナスと捉えること自体が誤り
マイナスがプラスになるのではありません。
マイナスは既にキリストの十字架によってプラスとされているのです。
ですから神によってプラスとされたものを、神がご覧になるように私たちも見ることです。
マイナスに見えたとしても、既にプラスとなっているのです。
どんなに歯を食いしばってマイナスをプラスに変えようとしても、マイナスだと思っている限り決して神の奇蹟は起きません。
②神がプラスに既に変えてくださったことを感謝をもって受け止める
産婦人科医のご家庭に全盲の赤ちゃんが与えられました。
初め、お父様もお母様も自分を責めました。
自分たちに何か落ち度があったのではないか、問題があったのではないかと。
しかしやがてマイナスに見えることは実はプラスであったことに気づいて、お子さんと一緒に成長していく生き方を選び取るようになられました。
そんなときお子さんがおもちゃのピアノを実に上手に弾くことを発見しました。
この時、目が見えるという賜物は与えられなかったけれど、素晴らしい音楽の賜物が与えられていることに気づくのです。
そして今、見事に花開き、多くの人に慰めと希望を与える存在となりました。
③マイナスがプラスになるのではない
既にすべてのマイナスはプラスに変えられているのです。
そのプラスであることを信仰の眼差しをもって確かに受け止め歩んでいくときに、素晴らしい神の祝福をいただくことが出来るのです。
◎キリストの十字架によって、すべてのものがプラスとされたことを信じて歩む人生こそ、神が願っておられることです。
平安と祝福を祈っています。
コメント
こんにちは。
始めて投稿します。
自尊心が極度にないガクガクっ子です。
ばかにされたり笑われても、今までは平気なふりをして思考停止してるのを隠していたことに気付きました。
逆に一緒になって自分のことをばかにしちゃうのです。
心の中では怒りではなく傷ついたという心だと思うのですが、ショックで思考が停止するのです。
そのばかにされたことに対して明るく軽く返すことが自己一致なのでしょうか?
それとも怒りを表すことがいいのかすら自分のことが分かりません。
思考が停止したままになるのです。
仕事中であってもショックでいっぱいになり頭が何時間も真っ白になるのです。
これは私が感情を隠しているからでしょうか?
どうしたら自分と向き合えるでしょうか?
こんにちは、ガクガクっ子さん。
初めてのコメントをありがとうございます。
ガクガクっ子さんへのお返事を明日(2014年11月26日8時)の当ブログの記事として掲載しますので、よろしければご覧ください
ありのパパより
なおコメント者欄のニックネームと文中のニックネームが異なっておりましたので、文中のニックネームに統一させていただきました。
ご了解ください。