人生でたった一つ必要なことは霊的な目が開かれることです。
そして自分の目が開かれた後は、人々の目が開くお手伝いをすることが自分にとっての最大の生きがいとなります。
イエスはそのような人生を生きた先駆者でもありました。
1.サマリアの女とイエス様
聖書をピックアップ的に読んでいると、分からないことがあります。
例えばイエスがサマリアの女とお話した後で、弟子たちに『わたしには人の知らない食物がある』と仰ったことです。
「サマリアの女の物語」と「イエス様の人の知らぬ食物」という別々のお話として教会学校では良くお話されます。
しかし実はこれは一つの物語です。
サマリアの女とイエス様の、話が噛み合っていない話し合いがなされた後、イエスは深い満足を感じておられました。
なぜでしょうか?
2.イエスにとっての満足とは?
①イエスは人々が霊的な生涯を送ることを何よりも願っておられた
宗教的な人生を送ることと、霊的な人生を生きることは違うことです。
さらに言えば信仰深い人生を生きることと、霊的な人生を生きることの間に大きな差異があることもあり得ます。
では霊的な人生とは、どんな人生でしょうか?
それは「何が大事なことか」がはっきり分かっていることです。
では何が大事なことかというと、それは「神と私の関係」についての理解にほかなりません。
サマリア人も、ユダヤ人も「どこで礼拝するのが大事なことか」という事に関心がありました。
しかし最も大切なことは、そんな地理的な問題ではなく、心の問題であることは明白です。
この明々白々なことが分からないのが、私たち人間なのです。
それは罪によって、心の目が塞(ふさ)がれていることが原因です。
②イエスにとっての満足とは、人々の霊的な目が開かれることにあった
塞がれた心の目を開くことがイエスの満足であったのです。
弟子たちにとって、サマリアの女の存在は「out of 眼中」でした。
なぜならサマリア人は汚れた存在であり、女性は蔑視されるべき存在でしたから、サマリアの女は二重の意味で「そこに存在することさえ認められない」のでした。
それで弟子たちは誰もイエスがサマリアの女と話をしているのに、口を出しませんでした。
普段なら、ペテロがイエスの袖をひいて「イエス様、これはどういう意味ですか?」とイエスの説教の最中であっても問うほどの近しい関係であったにもかかわらずです。
③イエスに偏見はなく、人々の心の目が開かれることだけがご自身の望みであられた
当然といえば当然ですが、イエスには偏見が全くありませんでした。
売春婦だろうが、敵国人だろうが、そんなものは何の関係もない。
ただご自分の民の心の目が開かれることだけが、ご自身の願いでした。
サマリアの女の心の目が開かれたとき、イエスは深い満足を得られました。
それで『わたしには人の知らない食物がある』と言われたのです。
3.私たちが満足を得るためには?
①私たちもイエスと同様の満足を得るにはどうしたら良いか?
そのためには、まず自分自身の心の目が開かれていなければなりません。
私たちは霊的な人生を生きているでしょうか?
まずそのことが問われないといけません。
正直な心になって、自分に問う時、霊的な生き方をしていないことを認めざるを得ないのではないでしょうか?
ありのパパが、そうです。
イエス様のこの物語を読むと、率直に「へぇ~、凄いもんやな。やっぱりイエス様は神様や」と思ってしまうような者です(笑)。
しかし生きている限り、悔い改めることが可能です。
どこからでも再出発が可能であり、気づいたところからが再出発です。
②私たちも、人々の心の目が開かれることを最大の望みとすべき
どうでも良い事にではなく、人々の霊的な目が開かれる事に、私たちの人生の焦点を合わせるべきではないでしょうか?
本当の満足は霊的なものの中にあります。
③自分自身と隣人を愛していく中で、心の目は開かれ続けていく
とは言っても罪人である私たちの事ですから、完全に霊的な目が開かれるという事はあり得ません。
もし完全に開かれたと思ったとしたら、それは堕落したときか悪魔にやられてしまったときです。
人々の存在をありのままに受容する事で、私たちの心の目が開かれていきます。
そのような他者受容を続ける中で、最も恵みをいただけるのは、他でもない私たち自身なのです。
共に、恵みの中で成長していきたいものです。
『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。』
◎平安と祝福を祈っています。