人生に奇跡を起こす方法はあるでしょうか?
「そんなものはない」というのが多くの人の答えでしょう。
しかし聖書の登場人物の中に奇跡を体験した人がいます。
その人はイエスの母マリアです。
マリアの行動を通して奇跡を自分の人生に起こす方法を見ていきます。
1.イエスが一番最初に行った奇跡
イエスが最初の奇蹟を行われたのは、イエスの母が出席されていたガリラヤのカナで行われた婚宴の席でした。
なんと只の水を高級なぶどう酒に変えたのです。
イエスの母マリアが、その婚宴の裏方の責任者をつとめていたようです。
ところが婚宴に出すぶどう酒が途中でなくなってしまいました。
途中で酒が無くなってしまったりすれば、普通であれば準備の不十分さをなじるのではないでしょうか。
しかしマリアはそうしませんでした。
なぜならマリアには頼ることの出来る方がいたからです。
この時点で夫のヨセフについての記載がないことから、既に亡くなっていたと思われます。
頼るべき夫のいないマリアでしたが、それを補って余りある頼りがいのある人がいました。
2.自分の必要をイエスに伝える
これは当たり前のことのようですが大切なことです。
どういうことかと言いますと、状況を正確に把握することの大切さを教えているのです。
人の話を無理やり聞かせられて、話を聞くのが面倒くさくなって、その場から逃げ出したいとき、クリスチャンがよく使う手が「祈っています」です。
しかし本当のところを言えば、もっと詳しく話を聞かないと、祈ろうとしても事情がわからないので祈れないはずなのです。
ですから「何も分かりませんが、とにかく祈っています」というのは、あり得ないことです。
それで祈りも紋切り型の一言半句の型通りの祈りになってしまうのかもしれません。
3.神の意志が示される
イエスの母への応答は、けんもほろろというか、血も涙もないというか、「あなたは親子関係についてどのように考えているのか?」と言ってやりたいようなものでした。
『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。私の時はまだ来ていません』[ヨハネ2:4](新改訳聖書)
皆さんは「これはイエスと母マリアの特殊な関係によるものでしょう」と言われるかもしれません。
だから自分にはイエス様はこんな冷たい仕打ちはなさらないと思っているのです。
これが大間違いのこんこんちきなのです(笑)。
二千年経とうが経ちまいが、同じ神様なのですから、やっぱり同じような対応をされると考えるのが至極当然だと思いますが、皆さんはどう思われますか?
しかし試練のとき、このような一見冷たい仕打ちをされると、心の中で「これが神の愛ですか?」とつい恨み言の一つも言ってみたくなるのが人間というものではないでしょうか。
しかしマリアはそうしませんでした。
4.いつものようにイエスを信頼しきっていた
夫のいない家庭を長男と共に様々な試練を乗り越えてきた関係がそうさせたのでしょう。
マリアはイエスに揺るがない信頼を置いていました。
ですから一見冷たく見えるイエスの応答にも、信頼が揺らぐことがありませんでした。
他人から見たら「馬鹿みたい。あなたの信仰の根拠は何?」と聞かれるようなこともあるでしょう。
しかし私たちはイエスを信頼しきっていたマリアの信仰にならう者でありたいですね。
5.他の手伝いの人々に、どんなことであってもイエスの指示に従うようにと言い含めておいた
マリアは個人的にイエスを絶対的に信頼していただけではなく、それを他の者との関係にも適用しました。
他の手伝いの人々に「私の長男から指示があったら、それが何であったとしてもその通りにしてください」と言いました。
現場の責任者としてのマリアの指示がなかったら手伝いの人々はイエスが何か言ったとしても、その指示に従わなかったかもしれません。
私たちは神に個人的に示されたことを、他者との関係に適用しているでしょうか?
それとも「もっと明らかになってから、人々に言うことにしよう」と考えているでしょうか?
もし後者であるなら、あなたの人生にはいつまで経っても奇蹟は起きないでしょう。
6.他の手伝いの人を通して、主の奇蹟は行われた
『水を汲(く)みし僕(しもべ)どもは知れり』(文語訳聖書)
只の水がぶどう酒に変わったことを知っている者は誰もいませんでした。
ただイエスの指示に従って水を汲んだ手伝いの人々を除いては。
この言葉は何と含蓄(がんちく)に富んだ御言葉であることでしょうか。
誰も知らなくて良いのです。
ただ神様と私が知っていれば、それで良いのです。
多くの人々は華々しい成功を求めますが、真に満足出来る人生を生きようと願うなら、「水を汲みし僕」の人生を生きることです。
ありのパパも、この文章を書きながら、もう一度肝(きも)に銘じました。
どのような人生を生きることが、満足できる人生であるのかを。
満足できる人生とは、いつでも神に信頼して歩む人生です。
◎平安と祝福を祈っています。