力の不足に悩むキリスト者は多くおられます。
その唯一の答えは聖霊に満たされることです。
聖霊の満たしは聖霊のバプテスマによってもたらされます。
聖霊のバプテスマは救いの恵みとは別の、救われたあとに受けるべき恵みであり体験です。
1.水のバプテスマと聖霊のバプテスマ
バプテスマのヨハネは、「あなたは救い主か?」と聞かれて、「いいえ、私は荒野で叫ぶ者の声に過ぎません」と答えました。
続けて彼は『この方(イエス)こそ、世(社会)の罪を取り除くための、犠牲の小羊として備えられた方である』(ヨハネ1:29)と言いました。
話の結論として、彼は「聖霊のバプテスマを授けられるのが救い主」であると言いました。
彼は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対比させました。
なぜそんなことをしたのでしょうか?
2.福音派は聖霊のバプテスマと救いの恵みを同一視する
ある時、福音派に属するバプテストの牧師から電話がかかってきたことがありました。
それは超教派の雑誌に連載しているのだが、聖霊のバプテスマと救いの恵みを同一視する視点に立って文章を書いたところ、出版社の方から「うちは超教派の出版社であり、読者にはホーリネス教会の信者さんもおられます。ですからその方々にも配慮した内容にしてください」とダメ出しを出されたことのことでした。
しかしこの方はバプテスト派の神学しか知らず、出版社の方が言われたことを理解しかねていました。
それで神学校が同じだった、ありのパパのところに電話をかけてきたというわけです。
「聖霊のバプテスマは救いの恵みとは異なる、救いに続く第二の恵みであること」を説明しました。
そうすると、その方は心底ビックリしたようでした。
「ではあなたにとって、救いの恵みとは何なのか?」と逆に詰問されてしまいました(笑)。
神学校まで出ているような人であっても、同じ福音派の他の教派の神学について全く知らないということに驚きを覚えました。
3.聖書はこのことについて、どう言っているか?
なぜバプテスマのヨハネは、世の罪、即ち社会の罪を取り除く神の小羊という話の結論を、救いの恵みではなく、聖霊のバプテスマに置いたのでしょうか?
もちろん聖霊のバプテスマと救いの恵みは同じものであるとの理解に立てば問題はなくなります。
しかし、そうすると今度は他の聖書箇所の理解が難しくなります。
たとえば、使徒の働きや書簡は聖霊のバプテスマを救いの経験とは別の経験であるとしない限り、理解することが難しい個所が多くあります。
4.聖霊のバプテスマによって聖霊に満たされることの大切さ
バプテスマのヨハネの宣教活動は社会的正義の実現に強調点を置いたものでした。
それで彼が『世の罪を取り除く神の小羊』と言ったとき、「神の小羊」に最大の強調点があったことはもちろんですが、「世の罪を取り除く」という点にも、譲ることの出来ない彼の思いがあったことでしょう。
彼の使命は神の小羊の道備えにあったとともに、世の罪を取り除く宣教活動を通して実現されるものでした。
キリストが「世の罪、即ち社会の罪を取り除くための神の小羊」であったように、キリストを信じた者も小さなキリストとして社会の罪を取り除く使命があると、バプテスマのヨハネは考えたと思います。
『キリストの心を心とし、キリストの歩み給いしごとくに歩め』(聖書)
5.使命を果たすためには聖霊のバプテスマによって御霊に満たされていることが必要
聖霊に満たされることなしに、世の罪を取り除く神の業を遂行することは不可能です。
それでバプテスマのヨハネは、話の結論を救いの恵みにではなく、聖霊のバプテスマに置いたのではないでしょうか。
この社会の罪を取り除くということが指している内容は、多方面にわたるものです。
a.宣教を進めるには聖霊のバプテスマが必須です。
b.聖い生き方を実践するためには、聖霊のバプテスマによって御霊に満たされていることがどうしても必要です。
c.教会が預言者の使命を果たすために、恐れないで立ち続けるために、聖霊に満たされていることが必要です。
d.死に至るまで信仰をもち続けるために、聖霊のバプテスマが与えられたとき同時に与えられた異言で祈る賜物を用いて神様と人格的に交わることがどうしても必要です。
聖書は神学的明快さを目的として書かれたものではなく、福音を信じた者が福音にふさわしく生きていくのを教えるために書かれたものです。
そう考えれば、この個所の難解さも納得できるのではないでしょうか。
◎平安と祝福を祈っています。