新約聖書の中にある「テモテへの手紙」を読むと、テモテという人が私たち日本人と感性がとても似ていることが分かります。
それでパウロがテモテに与えた忠告を学ぶことは、日本人にも益があります。
パウロはどんな忠告を与えたのでしょうか?
1.神から与えられた賜物を大いに用いる
「私があなたに手を置いて祈ったとき、あなたが頂いた神の賜物を大いに用いるように、私は願ってやまない」[Ⅱテモテ1:6]
パウロがテモテのために涙をもって祈ったとき与えられた賜物。
Ⅱテモテ1:4には『あの時のあなた(テモテ)の涙を、私(パウロ)は覚えている』とありますから、泣いたのはパウロだけではなく、祈られたテモテも泣いたようです。
本当に命がけで宣教の任務を遂行していたのだと思わせられます。
神から与えられた聖霊の賜物を用いるのをやめてはならないと、パウロは言っています。
私たちにも、同じ危険があります。
日本では目立つ人々は叩(たた)かれます。
これは教会も例外ではありません。
しかし「出る杭は打たれる」のですが「出すぎる杭は打たれもせず」であり、さらに「寄らば大樹の陰」と言われるように大樹になってしまえば叩(たた)かれなくなります。
宝塚出身の女優さんのお話を聞いたことがあるのですが、その方は目鼻だちがはっきりした(昔風の言い方で言えば)フランス人形のような方です。
その方が子供のとき、純粋な日本人だったのですが、毛は縮(ちぢ)れており、色は真っ白だったために、いじめられ、石を投げられたこともあったというのです。
お話を聞きながら「これが日本社会なんだ」と思わずにはいられませんでした。
しかし卑屈にならず、神から与えられた賜物を磨き続けるなら必ず認められるときがやって来ます。
その時を信じ、期待して歩み続けることです。
2.臆病にならず、大胆かつ謙遜に生きる
「神が私たちに与えられたのは臆病の霊ではなく、力と愛と自制(セルフコントロール)を発揮する霊である」[7節]
パウロがテモテに「臆病にならないように」と忠告したということは、どうやらテモテには繊細すぎる面があったようです。
パウロは強靱な精神力を持っていたことが、パウロの書いた手紙を読むと明白に伝わってきます。
色々な性格の人々がおり、性格が強い人もおれば、弱い人もいます。
強い人が弱い人に向かって「強い人になれ!」と言ってはなりません。
強い性格はリーダーシップ性格とも言うべきものですが、こんな強い人ばかりが教会にいたとしたら、ありのパパは教会から逃げ出すと思います(笑)。
弱い性格とは具体的には、人の気持ちがわかるということです。
強い人は「何で出来ないの!」と悪気なく言いますが、人の気持ちのわかる人は「そうせざるを得ない気持ちがあったんじゃない?」と言います。
教会にも、家庭にも、会社にも、地域の集まりにも、両方の性格の人々が必要です。
リーダーシップ性格の人は謙遜に生きることを心がけましょう。
気が付くと喋っているというようなことが、ないようにしなければなりません。
あなたの周りの人々はあなたの話を聞くために生きているわけではありませんから。
人の気持ちがわかる人は大胆に生きることを心がけましょう。
神様からいただいた賜物を引っ込めないで、大胆に用いてください。
いつもいつも奥に引っ込んでいては、神様に「あなたはいつ活躍するの?」と言われてしまいますよ(笑)。
3.福音のために苦しみを味わっている人々と苦しみを共にする
「あなたは主(神)を証することや、私たちが信仰の故に投獄されていることを恥じてはならない。むしろ神の力によって福音のために私と苦労を共にして欲しい」[8節]
日本の教会は福音のために苦しみを味わう人々、言い換えると迫害されている人々を無視してきました。
戦前、内村鑑三を見捨て、美濃ミッションの人々を見捨て、最後はホーリネス教会の人々を見捨てました。
そしてその結果として教会は神に裁かれ、我が国も神の裁きを受けました。
戦後反省したかと思えば、そんなことはなく、イラクで人質になった人々を救援せず、今はカルト化教会の犠牲になった人々を無視します。
当たり前のことを当たり前にやっているとき、当たり前の結果が付いてくるものです。
当たり前のこととは、福音のために苦しみを味わっている人々と苦しみを共にすることです。
この当たり前のことをするのに、神の力が必要であると聖書は言っています。
そうです。聖霊の力なしには、戦前の日本の教会のように、苦しみをともにすることは出来ないのです。
また苦しむ者と共に苦しむ覚悟なしに、聖霊の力を求めることは茶番劇でしかありません。
この点で、聖霊派教会は悔い改める必要があると思います。
聖霊体験は苦しむ者と共に苦しむための、神からの贈り物です。
切り捨てたり、無視したり、中傷したりするのなら、はじめから聖霊の力などは求めないことです。
神の義を実現することを教会から始めなければなりません。
その当たり前のことを行うとき「聖霊もまた共に働いて彼らの宣教を確かなものにした」(聖書)
その当たり前の結果とは、宣教の著しい進展を指しているのです。
◎平安と祝福を祈っています。